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中島敦の「鶏」

あらすじ
その頃の「私」の仕事は、パラオにおける民俗調査のための資料収集だった。そしてその手伝いを頼んだのがパラオ人のマルクープ老人。「私」は魔除けや祭祀用器具などを老人に作らせては買い取っていた。老人は徐々にそれらの値段を釣り上げていった。しかし、それに伴って買い取ったものの品質はだんだんと悪くなっていく。よくよく調べてみると、以前買い取ったもののほとんどが粗悪品。ある日、一時の感情の高ぶりから老人を厳しく怒鳴りつけてしまう。すると老人は突然石のような無表情になり、「私」の声も存在も認めていないといった状態になる。それから三十分ののち、ふと我に返った老人は、すうっと部屋から出ていった。その際、「私」の大切にしていた懐中時計が消えていた。以後、老人が「私」の前に姿を現すことはなかった。それから二年後、老人がふいに「私」のもとを訪ねてくる。老人は不治の病にかかっており、老人があまりに哀れな様子で頼むので、彼の切実な望みを叶えてやった。それから三カ月後、「私」のところに三人のパラオ人青年が立て続けに訪ねてきて、雌鶏を置いて帰っていった。理由は詳しくはわからない。それが老人の遺言なのだという。パラオでは鶏はとても貴重なもの。人間最期には善良になるだとか、人間の性情は一定不変のものではなくて、ときに良くなり悪くもなるだとか――ありきたりな説明ではは満足できない。「私」にはパラオの人がまったく理解できなかった。

読後感
最近、文化人類学や民俗学に興味を持っている。社会で起こる現象をできるだけ多角的に捉えたいと思っているからだ。主人公は民俗調査をやっているようだ。しかし、その目的は学術調査なのだろうか?パラオという場所、そして時代背景を考慮すれば、日本の統治目的の可能性が高い。それは冒頭の新任教員の挨拶のシーンでも類推できるだろう。どうやって服従させられるか。ただし、相手のことがわからないものはわからない。相手は何を大切にしているのか、何を目的にしているのか。西洋の合理主義にどっぷりつかった知識人なら、なおさら南方の人々の文脈は捉えにくい。まったく理解できなくて当然だ。異文化コミュニケーションの問題。相互理解の問題。問題にラベルをつければそうなるだろうが、雌鶏三羽をもらった理由は明かされずモヤモヤした気分になる。謎として余韻がたなびく。説明しつくさないことが大切なように思える。


構成や技法
全体23ページのうち、前述の新任教員の挨拶のシーンが6ページ。はじめて読むと「あれ?」と思うはずだ。主人公もこう吐露している。「どうも下らない理窟めいたことばかりしゃべり立てたようだ。私は一体何を話すつもりだったんだろう?」。そう言って、老人とのエピソードを語り始めている。分量の四分の一。なにかしら仕掛けがあるのではないか。2回目を読みながらこの部分が時代背景や風土を理解する手がかりになっていることに気づいた。一見戯言のように思わせる企み。わかる奴だけわかればよい。作者の手練手管。伏線の回収は読者としては気持ちがよいものだ。

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