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外山滋比古のエディターシップにおける「変化の論理」

人間には動物性のタイプと植物性のタイプとがある。

ひとつの仕事、専門に立てこもり、ほかのことには目もくれないのが植物性タイプである。動物性タイプは、同じところにじっとしていることを苦痛と感じる。興味にかられてつぎつぎ新しいことを追う猟犬のようなところがある。根を下ろしたら無闇と動くことができない植物と自由に走り回らなくては気のすまない動物との差である。

イギリスの諺に、転がる石には苔は生えぬ、というのがあって、商売替えをする人間には金がたまらない、という意である。安定した社会では、みんなが勝手に動き回ったりしてははた迷惑で、転がる石、つまり、動物的人間は喜ばれないのである。この一筋につらなる、といった名人気質が幅をきかす。

何でも屋が軽んじられて、専門家が大事にされる。世の中は専門家の社会だといってよい。ところが、このごろ、すこしずつ、変わろうとする動きも出てきた。スペシャリストに対してジェネラリストが注目されるようになった。専門領域と専門領域との間で見逃されていた境界領域も脚光を浴びている。

あるときアメリカの雑誌「タイム」でバックミンスター・フラーの伝記の紹介を読んだが、その中で、フラーが自分のことを“動詞のようなものだと思う”と言っている箇所にぶつかった。この人は典型的なジェネラリスト、あるいは知的スーパーマンであるが、みずからを“動詞”的人間ととらえているのがおもしろい。ちょうど、はじめに述べたような動物的、植物的の区別を考えていたときだったのである。

近代文化は、知的分業を方法として、専門と分化により、狭く深く知識を探究してきた植物的文化である。しかし、それが行き過ぎると、隣はなにをする人ぞ、といった弊害があらわれて、分化したもの同士を結び合わせる必要が出てくる。動物的文化が着目されるようになったわけである。フラーの表現を借りるならば、これを動物的文化と言いかえてもよく、植物的文化は名詞的文化ということになる。

近代人は長い間、名詞的文化を主流とする伝統の中で生きてきたために、ともすれば動詞的文化の意義を忘れがちである。近代社会がある種の硬直さを示しているとすれば、異種とは容易に結合しない名詞的性格がその一因であるとしてよかろう。動詞的人間、動詞的文化は異質なものを結び合わせる機能をもつところにその面目がある。

ちなみに、明治以降の日本の翻訳文化においては、この名詞的性格がきわめて強いことに注意しなくてはならない。外国の文化、思想を移入する翻訳にあたって、名詞的要素へ関心が集中したのは偶然ではあるまい。外国語の翻訳としても秀逸なもののほとんどが名詞に限られている事実がこれを裏付ける。動詞については在来の日本語を流用することがほとんどであったのに対して、名詞は漢字による苦心の新語がおびただしくある。

その結果、われわれの国の近代文化は、ヨーロッパの近代文化以上に名詞的性格が強くなっている。流動性に欠け、非創造的である。人間そのものも、動詞的人間が少なく、どちらかと言えば、名詞的人間が多い。社会の変化がはげしくなり、新しい秩序への模索が活発になると、かつては嫌われた“転がる石”の価値が見直される。

動詞が主語と目的語をつなぐように、“動詞”的存在は、バラバラになったものを結合させる。学問の専門分野を結びつければ境界領域が生まれる。対立し合う二つの勢力を結びつければ政治的調整になる。それを妥協といって軽蔑するのが植物的文化だ。これまで考えられたことのないもの同士の組み合わせに成功すれば、発見にほかならない。

しかし、ここで、動詞という比喩にこだわるならば、英語の動詞だと、主語の人称、数、時制によって“変化”する。他者の結合に作用すると同時に、みずからも変化するのが動詞的人間、文化の性格ということになる。

編集者をかりに動詞的機能をもった人間であるとすると、編集という統合、綜合の仕事をしているうちに、いつの間にか編集者自身が編集から影響を受けて変化する。朱に交われば赤くなる、というが、心をこめた仕事をすればするほど、仕事に染まり、“動詞”は、それが結合する主語、目的語などから大きな影響を受けて、本来の流動的性格を失ってゆくこともあり得る。

編集が若いうちの仕事、比較的短期間しか続けられない仕事、のように考えられている裏には、仕事を続けているうちに結合機能が消滅してゆくという事情が潜んでいるのかもしれない。編集者は、したがって、こういう動詞的人間のように、みずからも変化しながら、あるいは、自分をすりへらしながら、作用するのでなくては充分でないことになる。

当事者として結合そのものに参加する動詞的存在に対して、変化に立ち会うことはするが、それ自体はすこしも変化しない触媒的存在がある。これは対象との間に距離をもちながら対象同士を結びつける作用をもつのである。化学で、AとBだけでは決して化合しないとき、Cという触媒があるとたちまち化合を起こすとき、これが触媒反応である。化合が終わったあとも触媒Cそのものにはなんら変化がみられない。

すべての人間にそういう触媒的機能が内在していればこそ、思いもかけないものをふと思いついたり、連想したり、意外な人間と人間の組み合わせを成立させたり、どうしても解決できないでいる問題が、なんでもないヒントがきっかけになって氷解したり、ということが起こってくるのである。インスピレーションも、ごく小さなものごとが引き金になって起こる心の化学反応と考えられる。引き金になったものは、それ自体変化しないばかりか、きっかけになったことすら自覚しないことが少なくない。

大小の発見、創造には、こういう触媒的作用の存在を想定してよいものが少なくない。その能力は限られた人間にのみ具わった才能ではなく、すべての人間に恵まれたものであることはとくに注意する必要があろう。さらに、この触媒作用をもっとも意識的に発動することを要請されているのが編集であることも、改めて考えてよい点である。

では、結合作用によって、どういうものが結合させられるのであろうか。

認識の基本として同類が結合されて名前が与えられて概念形成が行われる。イヌが、ほかの動物から区別されて、同じ範疇でくくられ、イヌという語と概念ができる。見たこともないようなイヌがあらわれても、これまでのイヌの概念と結びつけばイヌであるとする。子どもの言語習得は、こういう同種結合のくりかえしである。これは論理的であって、いわば自然の結合だといえるが、これもやはり、人間の心の中に触媒的機能がなくては考えられない。

かりに、イヌをイヌと呼んでみてもおもしろくもおかしくもない。自然的、論理的結合の段階を卒業した精神は、異種の結合を求められるようになる。たとえば、牡丹に獅子舞、竹に虎といった取り合わせが、なんとなくおもしろいと感じられる。どうして、牡丹と獅子舞という結合が美しいと感じられるのか。おそらく、それは見る人の触媒作用を誘発する何かがひそんでいるからであろう。

竹と虎との間にひそんでいる同類性が発見されるには、表層を包んでいる異類性を取り除かなくてはならない。イヌをイヌとならべるのに比べて、これは一見、無理な結合のように思われるが、そこにおもしろさの源泉がひそんでいる。

不調和の調和の美には論理の崩れに伴うかすかな衝撃がまつわる。結合、統合という名に値する結合、統合は、大なり小なりこういう不調和の調和の性格を帯びている。同じようなもの、すこしも矛盾するところのないものばかりで一冊の雑誌が埋まっていたら、その雑誌の編集者は編集を放棄したと思われるであろう。しかし、まったく同じことの繰り返ししか見られないような人生に対して、これでは生きることを放棄しているのではないか、といった批判がなされない。

どんな生活でも、少なくとも、精神の内部においては活発な触媒的結合、すなわち、創造、発見が繰り返されているはずである。ただそれは自覚されにくいのだが、これも雑誌編集といった具体的活動を比喩として借りるならば容易に理解できるのである。似たもの、同じものが続くと、われわれの注意力は漸減する。関心も逓減する。そして退屈を感じる。それを避けるためには、なるべく異質なものを結びつけて変化を出さなくてはならない。活発に働く注意力、関心はそういう活動を引き出す対象をおもしろいと感じるであろう。われわれはいつも生きる実感を求めて、おもしろい変化を追っているのである。

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