義務教育の敗北と君は言うけれど【平面説の路地裏から】
君は日本の義務教育とは何かを知らないようだから僕が教えてあげよう。ではまず手始めに、教育に関する法律である教育基本法の「前文」から見よう。
ふむ。どうやら国家の未来や世界の平和そして人類のために教育はあるべしと法律で定めているようだ。
では文中にもある日本国憲法も見てみよう。該当するのは第二十六条だ。
先ほどの教育基本法はこの精神に則っている。そして今回のテーマである義務教育は、この第二十六条の特に②に出てくる。おそらく君が言うところの義務教育とは、この義務教育のことを言っているに違いない。そうだろう?
そして君は言う。義務教育の敗北だと。
では、先ほどの教育基本法をもう少し見てゆこう。前文に続く第一章の第一条だ。
読めばわかるが、教育は「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」のために行われる、と言っている。それどころか「行われなければ"ならない"」とまで書かれている。そうでなければならないと法律は言っているのだ。それが君の受けた義務教育であり、僕の受けた義務教育である。それは「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」のためだ。もちろんだ。そのために僕らは義務教育を受けた。法律がそう言っている。
それでは少し飛ばして、同じ教育基本法の第二章を見てみよう。ここで義務教育の話が出てくる。
2を見ると「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われる」とまた同じ内容が出てきた。もういいだろう、義務教育は国家及び社会のために行われるということはわかったはずだ。
ちなみに先ほど挙げた教育基本法は、2006年に改訂された現行のものである。それ以前の旧法は1947年のもので、念のため、引用した箇所と同じと考えられる箇所を以下に挙げておく。
まず前文。
次に、第一条。
そして義務教育に関する第四条。
以上だが、基本的には同じである。ただ1947年の旧法では義務教育の項目に「国家及び社会の形成者」のフレーズが登場しないのはおもしろい。が、その説明はここではすでに終わっていると見ても良いだろう。戦後の1947年から2006年までの間の義務教育もまた、日本国憲法の精神に則り、国家及び社会の形成者の育成のために行われたのだ。
そして君は言う。義務教育の敗北だと。
さてここからが本題だ。
義務教育の敗北と君は言うけれど、僕が思うにおそらく「それは義務教育の内容と違う」という意味のはずだ。そうだろう?そしてもちろんその通りだ。それは義務教育の内容と違っているんだ。そんなことは僕だって知っている。知っていて、なお言っているんだ。だから君は「義務教育の敗北」というフレーズでは何も伝え表せていない。あるいは、現在の日本において日本国憲法の精神に則った国家及び社会の形成者の育成のための知識や知恵や見解や情報ではない、ということなら伝え表せているかもしれない。いや、確かにそうだ。その通りだ。だがそれがなんだというのだ。知識や知恵や見解や情報は、ときおり間違えたまま伝えられることがある、ということを知らないのか。これまでの歴史を鑑みても、国家がしばしば間違えたまま運営されることがある、ということを知らないのか。そして君はいま、ある知識や知恵や見解や情報を、義務教育の内容と違うという理由において棄却しようとしている。あるいは、棄却できると思っている。とんだ大間違いだ。まったくのお門違いだ。いったい君は何を学んできたんだ。恥さらしもいいかげんにしたまえ。義務教育の内容と違うという理由では君はそれを棄却できない。もしも今よりもほんの少しずつでも賢くあり続けたいならば、そんなふるまいを自分自身に許してはいけない。僕はそう思う。だがもしも君が、今よりもほんの少しずつでも賢くあり続けたいという思いや願い、あるいは祈り、または欲望に、灼かれていないのなら、それで良いとも思う。どんどん棄却しなさい。義務教育の内容と違うという理由において、どんどん棄却しなさい。だがその義務教育は国家のためにこそ存在して行われている。だから国家が間違えていたら義務教育もまた間違えていると考えて差し支えないだろう。そんな不安定なものが、何かを判断できる物差しであるわけがないのだ。そんなものに知性を委ねてはいけない。知性は国家を越えることを知らないのか。うん、そうだ。わかったね。よし。だからここはひとつ、ちょっと別の方法を考えようじゃないか。義務教育のことはいったん忘れよう。
さて。どうすればそれを棄却できるか??