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義務教育の敗北と君は言うけれど【平面説の路地裏から】

君は日本の義務教育とは何かを知らないようだから僕が教えてあげよう。ではまず手始めに、教育に関する法律である教育基本法の「前文」から見よう。

 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

ふむ。どうやら国家の未来や世界の平和そして人類のために教育はあるべしと法律で定めているようだ。
では文中にもある日本国憲法も見てみよう。該当するのは第二十六条だ。

第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

先ほどの教育基本法はこの精神に則っている。そして今回のテーマである義務教育は、この第二十六条の特に②に出てくる。おそらく君が言うところの義務教育とは、この義務教育のことを言っているに違いない。そうだろう?
そして君は言う。義務教育の敗北だと。

では、先ほどの教育基本法をもう少し見てゆこう。前文に続く第一章の第一条だ。

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

読めばわかるが、教育は「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」のために行われる、と言っている。それどころか「行われなければ"ならない"」とまで書かれている。そうでなければならないと法律は言っているのだ。それが君の受けた義務教育であり、僕の受けた義務教育である。それは「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」のためだ。もちろんだ。そのために僕らは義務教育を受けた。法律がそう言っている。

それでは少し飛ばして、同じ教育基本法の第二章を見てみよう。ここで義務教育の話が出てくる。

第二章 教育の実施に関する基本

(義務教育)
第五条 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。

4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

2を見ると「国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われる」とまた同じ内容が出てきた。もういいだろう、義務教育は国家及び社会のために行われるということはわかったはずだ。

ちなみに先ほど挙げた教育基本法は、2006年に改訂された現行のものである。それ以前の旧法は1947年のもので、念のため、引用した箇所と同じと考えられる箇所を以下に挙げておく。

まず前文。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

次に、第一条。

第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

そして義務教育に関する第四条。

第四条(義務教育) 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。

以上だが、基本的には同じである。ただ1947年の旧法では義務教育の項目に「国家及び社会の形成者」のフレーズが登場しないのはおもしろい。が、その説明はここではすでに終わっていると見ても良いだろう。戦後の1947年から2006年までの間の義務教育もまた、日本国憲法の精神に則り、国家及び社会の形成者の育成のために行われたのだ。
そして君は言う。義務教育の敗北だと。

さてここからが本題だ。

義務教育の敗北と君は言うけれど、僕が思うにおそらく「それは義務教育の内容と違う」という意味のはずだ。そうだろう?そしてもちろんその通りだ。それは義務教育の内容と違っているんだ。そんなことは僕だって知っている。知っていて、なお言っているんだ。だから君は「義務教育の敗北」というフレーズでは何も伝え表せていない。あるいは、現在の日本において日本国憲法の精神に則った国家及び社会の形成者の育成のための知識や知恵や見解や情報ではない、ということなら伝え表せているかもしれない。いや、確かにそうだ。その通りだ。だがそれがなんだというのだ。知識や知恵や見解や情報は、ときおり間違えたまま伝えられることがある、ということを知らないのか。これまでの歴史を鑑みても、国家がしばしば間違えたまま運営されることがある、ということを知らないのか。そして君はいま、ある知識や知恵や見解や情報を、義務教育の内容と違うという理由において棄却しようとしている。あるいは、棄却できると思っている。とんだ大間違いだ。まったくのお門違いだ。いったい君は何を学んできたんだ。恥さらしもいいかげんにしたまえ。義務教育の内容と違うという理由では君はそれを棄却できない。もしも今よりもほんの少しずつでも賢くあり続けたいならば、そんなふるまいを自分自身に許してはいけない。僕はそう思う。だがもしも君が、今よりもほんの少しずつでも賢くあり続けたいという思いや願い、あるいは祈り、または欲望に、灼かれていないのなら、それで良いとも思う。どんどん棄却しなさい。義務教育の内容と違うという理由において、どんどん棄却しなさい。だがその義務教育は国家のためにこそ存在して行われている。だから国家が間違えていたら義務教育もまた間違えていると考えて差し支えないだろう。そんな不安定なものが、何かを判断できる物差しであるわけがないのだ。そんなものに知性を委ねてはいけない。知性は国家を越えることを知らないのか。うん、そうだ。わかったね。よし。だからここはひとつ、ちょっと別の方法を考えようじゃないか。義務教育のことはいったん忘れよう。

さて。どうすればそれを棄却できるか??

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