愉快な奥さんへの小さな秘密
「もし仮に私が浮気するようなことがあったとしても、私は絶対に離婚なんてしないからね」
つい先日のこと、浮気だ不倫だテレビで言ってるのを見ていた奥さんがぼくに向かって放った言葉だ。
一度ではうまく飲み込めなかったので反芻して要約してみた。
どうやらうちの奥さんは、たとえ自分がぼく以外の誰かと浮気をするようなことがあったとしてもぼくとは別れるつもりはない…ということらしい。
『あ、ありがとう…』
返答に詰まりながら、かろうじて感謝の気持ちを伝えておいた。
きっと奥さんなりの愛情表現なのだろう。
うちの奥さんは愉快な人だ。
ぼくが踊れば、すぐさま合わせて踊ってくれる。
ぼくが変顔をすれば、5倍の変な顔を見せてくれる。
ぼくが適当な即興ソングを口ずさめば、存在しない2番を歌い継いでくれる。
人を愉快な気持ちにさせる天性の性質を持つ。
生活を共にしていると、ぼく一人では決して味わうことのなかった状況を味わわせてくれる。
味は美味いが客に冷たいガンコおやじが営む有名な大阪のお好み焼き屋に2人で行ったとき、ガンコおやじは気が付けばぼくらのテーブルでえびす顔でお好み焼きを焼いてくれていた。
「お好みくらいてめえで焼け」と無言の圧力をかけてくるあのおやじが客に焼いてあげてるとこなんてそれまで見たことなかったぞ。
グアムの税関では、ぼくが通るときは実に事務的、冷淡な塩対応だった屈強なチャモロ人が、奥さんが通るときには腹を抱えて笑っていた。
税関で職員が爆笑してるとこなんてそれまで見たことなかったぞ。
加えて天然さんだ。
明石鯛どころの天然レベルではない。
兵庫県は豊岡のシンボル、コウノトリさんくらいの天然記念物レベルだ。
まだ結婚前、付き合い始めてしばらくした頃、ぼくの家で夕食を作ってくれたことがある。
他のおかずを忘れてしまったが、その中に「カボチャの煮物」があった。
ぼくはそれを見て「おや?」と思った。
確か彼女は、カボチャやイモ類(彼女の言葉で表現すれば、「口の中でモッタリするもの」)が嫌いだと言っていた。
にもかかわらずカボチャの煮物が食卓に上がっている。
彼女に好物だと伝えた覚えはなかったが、ぼくはふつうに好きだった。
「栄養バランスとかを考えて、自分は苦手なものをぼくのためにわざわざ作ってくれたのか」
そう思って、心が温かくなった。
揃って箸を持ち「いただきます」と言うや否や、彼女が「あ!」と声を上げた。
「カボチャの煮物嫌いだったやんね!?」
…え?
『…いや、好きだけど?』ぼくは返した。
「うそ、前嫌いって言うてたやん?」
『いや、言ってないよ。嫌いじゃないし。っていうか…』
嫌いなのは自分でしょ?と言いかけたところで、彼女はこう言った。
「絶対言ってたって!…あれ?ちょっと待って。…ちゃうわ。嫌いなんわたしやった!どうしよ、嫌いなん忘れてて作ってもた!」
一瞬深刻な顔をしたあと、「まいっか」と言って彼女は笑った。
カオスである。
ぼくのそれまでの人生には存在しなかった類のカオスだ。
理解が追い付かない。
ぼくのニューロンでは処理しきれない案件だ。
隣で大脳皮質をオーバーヒートさせてるぼくをよそに、彼女は自分が作った料理を堪能し始めていた。
「美味しい」と笑っている。
実に美味しそうで楽しそうだった。
ぼくは解決しないことにそれ以上脳を酷使するのは止めにして、一緒に夕食を楽しむことにした。
カボチャの煮物は甘くて美味しかった。
ぼくは細かくて考えすぎて偏屈なところがある。
奥さんは大らかで明るくて素直な人だ。
対極にある二人だが、だからこそバランスが取れているのだと思う。
付き合い始めて半年は経った頃だろうか。
ぼくは父親から唐突に、出生の秘密…というかなんというか、それまでに築いてきたアイデンティティが少々揺らぐ告白を受けた。
ぼくの父方のひいおじいちゃんが中国の人、だったとのこと。
父も祖父が亡くなってからの、ほんの十年ほど前に祖母からさらっと聞かされただけで詳しいことは知らされていないとのことだったが、なんでも華僑の商売人で福建省出身の大金持ちだったらしい。
日本でたくさん稼いで奥さんやらお妾さんやら子どもやらをわんさかこさえて中国に帰っていったという話だ。
そのうちの次男であったうちの祖父は何かの事情があって父親とは絶縁し、一人日本に残って大人になり、やがて祖母と出会い、父やぼくたちが生まれたとのことだった。
そうか、おじいちゃんはハーフでおとうさんはクオーターで、ぼくや姉ちゃんは特にそういう名前はないけれど(知らないだけであるんだろうか?)、8分の1は中国なのかぁ…としみじみ思った。
思いはしたが、それまで日本人100%だと思って34年間生きてきたのだし、混血といっても8分の1しかないのだし、今更そういう事実を知ったとて自分が何か変わるわけでもないし…どうというものでもないなぁ。
と思いかけたところで浮かんだのが今の奥さんのこと。
今後、結婚だとか、家柄だとか、子どもだとか。
そういうことを考えたときに、気にする人は気にするだろうし、ぼくは自分のことなのでどうすることもできないけれど、相手は選ぶことができるわけだし。
そのときすでに、お互い結婚というものを意識して付き合っていた。
これを大したことじゃないと思うのはぼくの考えであって、相手はどうかわからない。
知った以上話さないのは「隠す」ことになってしまう。
ぼくはその日のうちに彼女に打ち明けた。
父から聞いたことを順を追ってそのまま話した。
一通り話し終わってぼくは訊いた。
『まあこういう話なんだけど…どうだろう?』
なにが「どう」なのか自分でもよくわからないが。
彼女は右の手のひらをぼくに向けて、一言、目の前のぼくに向かって言った。
「ニーハオ」
満面の笑みで。とても楽しそうに。
彼女が何を思ってそのリアクションを取ったのか、彼女の思いは彼女にしかわからない。
ただ、ぼくはその時確かにこう思った。
「ああ、この人と結婚しよう」
結婚してひと月ほど経った頃のこと。
当時勤めていた仕事に思うところがあり、ぼくは仕事を辞めたいなとぼんやり考えていた。
だけど結婚してまさかひと月で仕事辞める、まして次の予定も計画もなくただのプーになる、とはとても言い出せず、しばらく悶々とした日々が続いた。
そうこうしていたら自分の中のリミットが突如あっさりやってきてしまい、これは辞めざるを得ないなという状況になってしまった。
こうなってしまった以上仕方ない。なんと言われるかわからないけど奥さんに話すしかない。励まされたらちょっとしんどいけれど、これからのことを不安に思わせないように、ちゃんと話せばわかってくれるかも知れない。
そう思って奥さんに切り出した。
『仕事をね、辞めたいなと思ってるんだけど…』
切り出したはいいものの、さてなんと話していくか…と考える間もなく奥さんは言った。
「辞めたいなら辞めたらいいんちゃうん? あなたなら何でもできるから大丈夫でしょ。なんか問題あるの?」
拍子抜けした。
まるで夕飯の献立の相談でもしてるかのようなトーンだった。
『今夜は鍋がいいんだけど…』
「じゃあ鍋でいいんちゃう?」
くらいの。
肩の力が抜けまくって地面に手が着いてしまいそうだった。
きっとそのときのぼくはラピュタのロボット兵みたいなフォルムをしてたに違いない。
「結婚した以上自分だけの人生ではないし、おいそれと仕事を変えるなんてしてはいけない」
そんなことを勝手に考えていたのはぼくだけだった。
それこそ結婚したのに、ぼくはいつまでも独り相撲していたのだ。
案ずるより産むが易し、さっさと奥さんに打ち明ければよかったのだ。
ぼくはその時確かにこう思った。
「ああ、この人と結婚して良かった」
昨年、そんなぼくらの間に娘が生まれた。
ぼくらにとって初めての子どもだ。
待望の子どもだし、妊娠、出産に至るまでいろいろとあって決して順風満帆なお産だったとは言えなかったけど、それだけに無事に産まれてきてくれた感動は大きかった。
しかしほどなくして、娘にはいくつかの疾患、障害があることがわかった。
(今回詳述は控えるけれど、そう遠くない日に娘のこともきちんと記せたら、と思っている)
そのことがわかったときは、2人してどん底まで沈み込んでしまった。
いくら愉快な奥さんでもそのときばかりは笑えなかった。
2人で涙する日々だった。
だけど、疾患、障害を抱えていても、懸命に力強く毎日を生き抜く娘の姿に、ぼくたち親が励まされた。
娘がこれだけがんばっているのにぼくたちが沈んでる場合じゃない。
永遠に続くかと思われた心の苦しみも、振り返ってみればそれほどの時間を要することなく立ち直ることができていた。
娘は産まれてから退院できるまで9か月という時間がかかったけれど、今は家族3人で、毎日を楽しく暮らすことができている。
奥さんはすっかり、踊れば踊る、歌えば歌う、元の愉快な奥さんだ。
この人と結婚しよう、とか、この人と結婚して良かった、とか。
そんなことを思ってきたこれまでだけど。
最近では少しこんな風にも思う。
「この人と結婚して、この子が産まれてくるというのは、もしかするとはじめから決まっていたことなのかも知れないなぁ」
と。
このチームでどんな風に幸せな人生を歩んでいくのか、それを神様かご先祖様か、はたまたお互いの親兄弟や友人たちか…よくはわからないが誰かに見てもらっているような気がしないでもない。
そんな風に想像すると、まるで舞台の上に家族3人で上がっているようにも思えて毎日がより楽しくなってくる。
「もし仮に私が浮気するようなことがあったとしても、私は絶対に離婚なんてしないからね」
奥さんが軽いボケのトーンでこう言ったとき、『あ、ありがとう…』と狼狽えながら返した裏で。
そのことを想像した上で、
「でもたぶん、一通り落ち込んだりはするだろうけど、実際ぼくも別れたりはしないだろうなぁ」
と本気で思ってしまったことは、愉快な奥さんへの小さな秘密だ。
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