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岡田ありさへ

 私には自殺願望があった。
 幼少の頃、寝る前に布団にくるまって母から絵本を読んで貰うのが好きだった。童話世界の住人達が生き生きと動き回る様子に耳を傾けながら、いつも知らぬ間に眠りに落ちていた。
 卓上照明の光に引き寄せられ飛び回っていた羽虫が、絵本の表紙の上に転がっているのを見つけた朝。私は初めて死の存在を知った。同時に、自分と名付けられた何かがある事、自分に起こる死と他人に起こるそれとは違う事に気がついた。自分とは何なのだろうか。どうしてここにいるのだろうか。自分にとっての生きる事と、必ず訪れる死とは何なのか。
 ちっぽけな私一人の存在意義は生命の大きな歩みの中ではまるで無意味に思え、巨大な何かによって無駄に生かされているような気がしていた。自己意思を証明できる唯一の方法は、縛り付けられた運命の鎖を自ら断ち切る事のように思えた。

 中学生の時、遺書という題の創作文を書いた。
 排他的な社会の中でクラスメイトと協調し、親や教師から求められる姿を演じ続ける少年と、周りの目を気にせず自分は特別な存在だと信じ続ける少女。
 私は葛藤する自分自身を物語の中で二つに分けた。生に関する無意味さと、生かされている運命への憤り、無駄に思えた社交辞令や馴れ合い、本音とはうらはらに人前では余所行きの顔をする友人達や大人達。当時の私には抗う事ができず、どうしてよいのか判らない負の感情を、物語の中で二人へ投げつけて争わせた。

「絶望のような紅い唇が耳元で囁いた
 とろけるほどの甘い言葉が
 心と身体をどろどろと腐らせてゆく
 全てを儚い泡へと変えてゆく
 希望の照らす未来? 夢? 幸福?
 つかもうと必死に伸ばした両手を
 絶望のような愛らしさでくすくすと笑う
 そうわかっている
 崩れた感情と腐った瞳では
 明日を臨むことなどできやしない
 真に望んでいたものさえ もう思い出せない」

 上述から始まる書置きを残して、私の分身である少女は学校の屋上から身を投げた。
 創作文を書き上げた後、分身の片割れに自らの死を選ばせた事で、私の脳内に渦巻いていた生への意味を求める執着心や、死への願望が消えていった。そしてそれと同時に、片割れを失った私は空っぽになった。あらゆる事に対する現実感が薄れ、自分の行動や自身に起こる出来事でさえ、どこか他人事であるかのようで、自身を遥か上空から見下ろしているように見えた。

 私は進学し就職をした。しばらくして結婚し家庭を持った。突然泣き出した子供をあやして寝かしつけたりする。懐かしい学生時代の仲間と会って近況を話す。仕事の評価に一喜一憂し、重い申告対応に憂鬱になったり、同僚の愚痴を聞く。それらは取り立てていう程の特別な事では無かったが、そこで感じるささやかな幸せに私は満足していた。

 平凡な日常を忙しく過ごしていた私があなたを見つけたのは偶然だった。
 陽射しの眩しい夏の浜辺とトロピカルジュース。映像の中であなたの愛らしい笑顔を見た時、私は瞬きをする間も無くあなたの虜になった。郷愁を誘うメロディに乗ったあなたの歌声を聴いた瞬間、私の周囲にふわりと甘い香りが漂った。幾人もの夏少女に混じっていても、他の子とは違う特別な何かを感じた声を、私は不思議と聴き分ける事ができた。どことなく憂いを纏うあなたの歌声は、聴いて幾日経っても耳から離れなかった。
 私が求める全てのものをあなたは持ち合わせていた。女の子らしい物腰柔らかで可憐な仕草をするあなた。気遣ってくれる優しさと奥ゆかしさがあって、いつも落ち着いた声で話すあなた。エプロン姿でキッチンに立ち得意料理を器用に振る舞うあなた。そして鮮やかな衣装を身に纏い、煌びやかな照明の下で歌って踊るあなた。
 あなたは私の憧れそのものだった。あなたを追いかける事で、私の中の空っぽだった部分が満たされていく感じがした。

 もしも、あなたを偶然見つける事が無ければ、平凡な日常の中で些細な幸せを抱きしめて生きていけたのだろうか。又は、あなたに双子の妹がいる事を知らないでいられたら、私はもっと幸せだっただろうか。
 双子の妹へ対する第一印象は到底良いと言えるものでは無かった。立ち居振る舞いにしても、物事への考え方や周りへの気配りにしても、明るく健全なあなたとは全く違う性格をしている様だった。容姿こそ瓜二つでありながら、似ても似つかない性格の妹に対して戸惑いを感じていたが、何事にも疑いの姿勢を崩さず、常に悲観的思考である彼女へ、何故か私は次第に惹かれていった。捻くれ者で自身の考えを曲げる事を嫌う頑固さや、相手に対し強い態度を取る一方で打たれ弱さを露呈する姿は、どこか私の性質とも似通っているように思えた。

 あなた達が二十歳を迎えしばらくした頃、私の求める女の子像への憧れを嘲笑するかのように、あなたと同じ顔の妹は自身の髪をうんと短くした。顎の高さ程のベリーショートの黒髪を揺らし、相手の考え全てを見通す聡明な瞳が私を鋭く射抜いた。
 私は思わず「あっ!」と声を上げた。
 記憶の奥底へ沈めたはずの少女がそこにいたのだ。創作文の中で、自らの手によって命を絶たせた分身の少女。惹かれていた理由も私は理解した。生きる上で邪魔だと思えていたものを、あなたの妹はその手にしっかりと握りしめていた。

 私が一瞬で虜になった綺麗な歌声の裏では、血の滲むような努力と人生を左右させる程の葛藤があった事。煌びやかな舞台の上で華麗に舞う姿は、手足の無数の打ち身や擦り傷で支えられている事。食事時間も睡眠時間も削り、日々に忙殺されながらも、その疲れを感じさせずにいつも笑顔を見せている事。
 あなたと妹との関係を眺めている内に、私の分身の少女が身を挺して残した私の運命について、少しだけ前向きに捉える事ができるようになっていた。私があなたの妹に惹かれ始めた時から、妹の姿があなたの本来の姿なのだと疾うに気づいていて、それでも私はずっと知らない振りをしていた。協調性を求める社会に馴染む為に、分身の少女がずっと私の中で生き続けている事を知りつつも、薄暗い心の奥底へ沈めて目を背けていたように。

 私の創作文の中で死した少女とあなたの妹は別なものだ。そしてあなたはそのどちらとも違う。あなたは私の中でしか呼吸ができない。
 部屋に祭壇を作りお供えをするかのように所縁のある物を幾つも並べて飾り、時には敬虔な信者の面持ちであなたの足跡を巡礼し同じ物を食べ、同じ景色を見ようと行動する。そのように、まるで神を讃えているかのような一方で、実在する本来の姿を自分に都合よく捻じ曲げ、理想的な姿を気ままに想像し、妄想の中で弄ぶ。
 あなたは尊く儚い存在だった。惹かれ憧れた美しい容姿、長い髪をかき上げる可愛らしい仕草、ゆっくり語りかける声と優しい眼差し。もう一人のあなたが髪を切った時から、あなたの愛おしい姿を思い出せなくなってしまった。揺らぐ陽炎の中で、あなたを見つけたあの暑い夏の日から、私は長い夢でも見ていたのだろうか。

「白く靄のかかった曇りの日。とてもよく知っている場所。あの子は物悲しそうな瞳で僕を見つめていた。彼女の唇が微かに震えて何かを言った気がした。そして、僕の頬に口づけをした。……あの子が死んでから十年以上経った。それでもまだ、僕はこんな夢を見る。とてもよく知っている場所、それなのに目が覚めるとどこなのか思い出せなかった。けれども、頬には彼女の冷たい感触が残っていた」
 少女が消えた後、年月が過ぎて少年は大人になった。
「僕にはあの子が必要だった。そして、絞め殺されるほどの愛情でもいい、他人には軽蔑されるような信頼でもいい、僕もあの子に求められたかった。必要だと言ってほしかった」
 私の創作文は、このような彼の独白で終わる。

 唯一の理解者を失って残された者の嘆き。その中に含まれた彼の言葉の真意に、書いた私はまだ気がついていなかった。失った分身は少女だけでは無い。片割れである少女が消えた後、それでも必死で生き残ろうと伸ばしていた手を振り払い、非情な私は少年をも物語の中へ置き去りにしてしまったのではないか。
 私が私自身を必要だと認める事。私自身を愛する事。
 少年と少女が共に歩く未来を当時の私が思い描けたのならば、空虚な自分を持て余すこと無く、分身達の意思をしっかりと受け止め生きてこられたのかも知れない。
 しかし、それはもう過ぎ去った話だ。

 惹かれ憧れたあなたはどこにいるのだろう。
 私は今、鮮やかに色づき華やいだ道を進むもう一人のあなたを見ている。夢と希望に満ち溢れ、きらきらと眩しい景色の中で動き回る彼女の姿を、私は食い入るように見つめている。あの夏の日の記憶を辿るように、懸命に目を凝らしているのに愛しいあなたを見つけられない。
 もう一人のあなたを双子の妹であると考える事も、あなた達を同一視する事も、彼女の人格を無視して尊厳を傷つける事に他ならない。だから、忘れてしまったあなたの面影を、彼女へ望むのはもうやめよう。
 悲しむ必要は無い。死した少女が消えずにいたように、あなたはきっと私の中で永遠に生き続けているのだから。

 ありさ、二十三歳の誕生日おめでとう。

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