進化

気づいた時には授業が終わっていて教室の中には自分しか居なかった。ノートの真ん中に大きな文字で「なんでお前なんかに馬鹿にされなあかんねん!!部屋とYシャツと地蔵」と書かれていてそれをヨダレがコーティングしていた。ヨダレを服の裾で拭き取ると紙が破れて奥のページの「幸福追求権を」という文字がこちらを覗いた。

浪人してまで大学に入ったにも関わらず、ろくな人間がおらず直ぐに後悔した。他の人間とは違った何かを持っていると思ってしまう自信過剰な部分が自分でも嫌だったし、かと言って誰かと仲良くする気にもなれなかった。講義中に教授の話を聞いているのは前の席に座っている数人だけで大多数は後ろの方の席でスマホを触っているか寝ているか喋っているかのどれかだった。僕は真ん中より少し前の席でねじまき鳥クロニクルを繰り返し読んでいた。そんな退屈で慢性的な日々がこれからも続くことを覚悟したけれど、突然、それは一人の男によって打開された。破壊されたと言ってもいいかもしれない。

僕がグループワークの自己紹介で「大喜利が好きです」と言うと、その男がこちらを見ながらニヤニヤと笑いかけてきた。その笑い方に異様な不快感を感じて目を逸らしたけれど、ずっと左の頬に視線を感じていた。講義が終わるとすぐに、僕の目の前にやって来て「おれ芸人目指してんねん和田やけど」と言われた。下手くそな関西版と和田やけど、と語尾で自己紹介する感じが鼻について「ちょっと今から仕事やめてくるの時の福士蒼汰くらい関西弁下手くそやで」と伝えると「東京出身やねん。けど関西弁の方が笑いが取りやすいから練習してんねん」と下手くそな関西弁で答えた。メールアドレス教えてと言うので断ったが、後ろからダラダラついて来たので仕方なく教えて逃げた。その晩、知らないメールアドレスから1件メールが届いて、直ぐに和田だと分かった。件名に「こんな家庭教師は嫌だ」とだけ書かれていて、本文には「濡れた靴下のまま上がってくる」と書かれていた。無視しても良かったが思いつかなかったと思われる方が嫌だったので「ペンを持つと人格が変わる」と返信した。それから毎晩、大喜利のお題と答えが送られてくるようになり、途中からはお題のネタが尽きたのか「元カノの肩幅とちょうど同じ幅の海へと続く道」とか「母音を聞く度に吠える犬」とか「老人対抗モチの早食い競走」という世の中に存在しないフレーズだけが送られてくるようになった。僕はそれに対抗する様に「ずっと勃起している美容師」「自分のこと人間やと思っているネギ」「びしょ濡れの理由を言わない父親」と返信した。和田とは大学ではあまり会わなかったが講義が被ると隣の席に座ってきて「こないだの答え面白かったで」とメールの感想を伝えてきた。和田は関西弁こそ下手くそだったが笑いに対しては、きちんとした信念を持っており集合写真の真ん中で寝そべる様な笑いの取り方は絶対にしなかった。授業中にいきなり大声で下ネタを叫んでクスクス笑っている集団を見て「下ネタは選択肢の中で1番面白いと思う時にしか使わへんし大声で誤魔化すことはしたくない」と呟き、僕のノートの真ん中に大きな文字で「チンポ!!」と書いた。

和田はそのセンスを見せびらかすことも無かったし僕のように殻に閉じこもるタイプでも無かったので、友達も多く女の子にもモテた。昭和の俳優のような彫りの深い顔もモテる大きな要因であったが、当の本人は「芸人っぽくないなぁ」といつも悔やんでいた。僕の隣の席に座る時はいつも一人で来て授業が終わると沢山の友達に囲まれて帰って行った。僕がミステリアスな人間だと勘違いして、そのミステリアスな友達を持つ自分に酔いしれたいが為に近づいてくる人間はこれまでにも何人かいたが、僕が平凡な人間であることに気づくと、みんなどこかのタイミングで関係に区切りを付けようとしたし僕はそれに抵抗しなかった。しかし和田は僕にいつまでも付きまとい1年の後期に入ると僕の履修と全く同じ授業を取った。

後期の授業が始まって2週間がたった政治学原論Bの講義の時に、和田が見たことの無い女の子を連れてきて僕の隣の席に座った。誰やねんと思いながら僕が黙ったままでいると「エビフライは尻尾まで食べる、鯛焼きは頭から、今日から転部してきたねんて」と女の子を紹介された。今日知り合った子にどのタイミングでその情報聞くねん。「モネと言います。法律に興味があって芸術学部から転部してきました。さっき和田さんに声かけてもらって」と女の子が僕に向かって軽くお辞儀をした。目が大きく肌が白かったのでエビフライの尻尾は残すやろという印象が残った。偏見。それからは3人で行動することが多くなり僕の一人でいる時間が極端に少なくなった。憲法Bの授業中に和田が突然「これ抜け出して動物園行かへん?」と言い出し天王寺動物園に行った。和田は猿を見ながら「今すぐ進化しろ!進化!進化!進化!おれに追い付け!!」と拳を高く突き上げて本気で怒鳴っていた。モネも目を瞑りながら手を合わせて「進化、、進化、、」と呟いていた。通りすがりの子供を連れたお母さんが刺すような目線で僕達を見てきたが、僕も心の中で1度だけ「進化」と言った。猿たちは進化することなく光が1番当たる所でただ昼寝を続けているだけだった。

和田が休みの日はモネと2人で過ごす事もあり、初めは気まずさが不快だったが、お互い絵を書くという共通の趣味が見つかると直ぐにそれは消えた。モネは僕の絵を褒めてくれた。「芸術学部に居たねんからもっと上手いやつ居ったやろ」と言うと少し沈黙して「模倣ばっかり」と答えた。モネも顔は整っていたしお嬢様気質な所もあり、かなりの男が近寄ってきたが素っ気ない態度で全てをスルーしていた。その度に男達は隣にいる僕を睨み、時には蔑んだりもした。もし和田とモネが二人で歩いていたらかなりお似合いのカップルに見えたであろうけれど、間に僕が居ることで違和感のある奇妙な空間を生み出していた。そんなことがある度に僕が自分を卑下する様な発言をすると、和田は「才能があるのにそれを無かったことにして自分を卑下するのは神への冒涜や」と怒った。その夜、「思春期の神」とメールを送ると「脱法母さん」と返信が来た。

2年になっても3人で同じ履修を組み、同じような日々が続いたが、後期に入って直ぐに和田は停学になった。和田は人を笑わせるのは好きだったが笑われることを極端に嫌った。冗談で馬鹿にするような事を言った時には本気で怒ることが何度かあったし、それが今回の停学の原因となった。演説に来た著名人から、将来の夢を聞かれた和田が「芸人になります」と答えたところ1人の生徒が大袈裟に笑い野次を飛ばした。それが授業中に大声で下ネタ言ってゲラゲラ笑っていたあの生徒だったので、和田がそれに激昂して殴りかかった。おそらく和田は人を殴ったことがなかったので「ペチャッ」というだらしない音が教室中に響いて、殴り返されてボコボコにされた。教室から連れ去られていく和田は「お前の母ちゃんプラスチック!!」と叫んでいた。著名人は行動の大切さを熱弁していたにも関わらずオロオロするだけだったし、僕はその様子を漠然と見つめているだけだった。モネの方を見ると心配そうな顔で少しだけ笑っていた。その夜、和田から「半期停学になりました共和国」とメールが来た。それからはモネと一緒にいる時間が前よりも格段に増え、大学のない日も自然と会うようになった。海に絵を描きに行くこともあったし、公園でブランコを漕ぐだけの日もあった。モネと話していると自然と本当の自分が出せる様な気がしたし、日々感じていた慢性的な不安も消えつつあった。

12月に入って季節が冬に変わると「僕の家で一緒にM1グランプリ見ませんか臨時代理大使」と和田からメールが来た。「モネと一緒に行きます。言ってなかったけどモネと付き合うことになりました国防委員会」と返信した。和田の家に集まり3人で鍋をつつきながらM1を見た。和田は戸惑った様な顔で僕達を迎えたが僕とモネの関係を口にすることは無かったし、3人の関係が崩れない事が分かると安心した表情で少し笑った。その年のM1は王道漫才と言われるコンビが多数出場していて盛り上がっていたが、結果、優勝したのはシュールさを売りにしている無名の若手コンビだった。ネタは確かに斬新であったが、和田は笑うことなく真剣な表情でそれを見ていた。エンドロールが終わっても真剣な表情のままの和田が気になって「シュールな笑いってどう思う?」と聞くと「シュールさを盾に才能が無いことを誤魔化すことは真ん中から逃げているだけの弱い人間のすることやと思う」と答えた。「でもお客さんにはウケてたしそれでいいんちゃう。笑かせ方を気にするのは芸人だけやろ」と反論すると「おれは芸人を含めた全人類を笑かせたいねん」と静かに言った。モネは糸こんにゃくを噛みきれずにずっと口をモグモグさせていた。

年が開けると3人で初詣に行った。何を願ったん?と和田に聞くと「グレープもフルーツやのに黄色い果実にグレープフルーツと名付けた人が処刑されますように」と答えた。今度は和田から僕に何を願ったん?と聞いてきたので「いや自分ではそう思ってはないですけどね。周りにはよく言われますけど。という謎のアピールがこの世から消えますように」と答えた。その間、モネはずっと祈り続けていていた。

3年に上がって和田が復学すると、復学祝いにまた天王寺動物園に行った。「もうええねん!何回やんねん!」と僕がツッコんでも和田とモネは「進化!進化!」と言いながら膝とおでこを近付けたり遠ざけたりする変なダンスを踊り続けていた。モネとは時々2人で会っていたけれど、その頃から会話のズレみたいなものを感じるようになり、素っ気ない態度で居ることが多かったので3人で居る方が気が楽だった。和田はそれを指摘しなかったし僕もこのままでいいかなと問題を後回しにしていた。

そんな矢先、四限が終わって和田と大学から帰っている最中、ハムカツを買いに商店街に寄ると、本屋の前でモネと見たことの無いハーフ顔のスタイルのいい男が手を繋いで歩いていた。モネは熱があると言って大学を休んでいたし、モネがハーフである可能性は低かったが、僕はそのハーフ顔の男をモネの親類だと信じて疑わなかった。「なにしてんの?」と心の中で何回も練習して何でもないような顔で話しかけたつもりだったが口から出た「なにしてんの?」は凄く乾いていて自分にも聞こえないくらいだった。モネはずっと下を向いて何も言わなかった。「おい、モネ!なんか言えや!」「誰?この男?兄貴?兄貴はおらへんか、従兄弟か?従兄弟やろ?」と話しかけても何も言わなかった。ハーフ顔の男は僕に近づいてきて「モネになんか用ですか?」と言った。お前誰やねん!殺すぞ!を押し殺して「モネの彼氏です」と言うと見下したような顔で笑われた。「おい!こいつ彼氏ですって言うてるで!ヤバイ奴に絡まれたな!お前なんかと付き合うわけないやろ」と馬鹿にされたと同時に僕の頭の中に何かがプチッと破裂する音がした。「死ね!!死ね!!」と言いながらハーフ顔の顔面に殴りかかった。その綺麗な顔面を原型残らずボコボコにしてやろうと思ったが、僕も和田同様に人を殴った経験がなかったので、あの時と全く同じ「ペチャッ」という音がして、その音さえ商店街のスピーカーから流れる心地の良い音楽に消されてしまった。もう一度殴りかかろうと拳を振り上げたけれど、その前にみぞおちの辺りにハーフ顔の長い足から放たれた蹴りがクリンヒットしてその場にうずくまってしまった。和田はその時になって「もうやめとけ!」と止めに来たが僕は既に意気消沈していて、もう一度抵抗する気などさらさらなかった。モネが小さな声で「ごめんね」と言って去って行ってしまい、気づいたら商店街の真ん中で「モネ!モネ!」と叫ながら号泣していた。こんなシュールな状況を笑ってくれるひとは世界のどこかにいるだろうか。

3年の後期が始まっても大学には行く気になれなかったし、和田のくだらないメールに返信する気にもなれなかった。部屋に閉じこもっていると頭の中に「ごめんね」と言った時のモネの顔が思い出されて、その度に憂鬱な気持ちになった。考えないでおこうと他のことを考えても何かと関連付けてまた同じ場所に帰ってきてしまう。死にたいくらい気分が落ち込んでるはずなのに、腹が減ってしまう自分の愚かさに嫌気がさした。気分転換になるかと久しぶりに大学に行くと周りの大学生たちは既に就活を始めていて、下ネタでゲラゲラ笑っていたあの生徒さえも金髪を黒髪に染めていた。久々に会った和田は鼻の下にちょび髭を生やしていて僕の顔を見て薄ら笑いを浮かべた。触れるのもめんどくさかったので、しばらく何も無い素振りをしたけれど顔を見る度にちょび髭をアピールしてくるので「なんやねんその髭」と聞くと「久しぶりに会った親友にちょび髭が生えてたらおもろいと思って」と答えた。おもんないねん。

大学内でモネを見掛けることは何度かあったが話すことは無かったし目も合わなかった。モネは何も無かったように平然と、僕の知らない友達と笑い合っていた。その事に少なからずショックを受けている自分に対して、また嫌悪感を抱いた。和田は芸人になることが決まっていたので就活をすること無く授業中もずっとボケていた。僕は少しずつ変わっていく周りの状況に不安と焦りを感じつつ行動に移せないでいた。何もやりたいことがなかったし、かと言ってニートになる気もなかった。働きたくなかったがニートという呼び名に一括りにされるのはもっと嫌だった。そんな状況を察してか、前から思っていたのかは分からないが和田から「一緒に芸人やらへん?」というメールが届いた。件名には何も書かれていなかったし、本文にはその1文しか書かれていなかった。今まで届いたメールで初めてボケのない真剣なメールだった。こんな卑屈な人間が芸人になれるなんて思わなかったし、突然の事でビックリして「ごめん無理やと思う」と返信すると直ぐに「今から直接あって話そう」と返ってきた。夜中の1時を過ぎていたのでメールでもう一度断っても良かったが、顔の見えないやり取りがめんどくさくなって大学の近くの公園まで行った。

「あそこ、座ろか」と和田が言うので夜の公園のブランコに2人で座った。白い息が出るほど夜は寒くまた季節は冬に変わろうとしていた。去年の今頃は楽しかったなと感傷に浸っていると、いきなり和田が「きゃー!!寒いね〜!!」と大声を張り上げた。「大声で誤魔化すことはしたくないって言うてたやんけ」と言うと「すまんかった」と素直に謝りしばらく沈黙が続いた。その日の月は少しだけ欠けていて中途半端やなと思った。和田は「おれがおもろいと思った人間はお前しかおらんねん。お前とコンビ組みたい」と真剣な顔をして言ったがその真剣な顔とちょび髭のギャップに笑ってしまった。それでも和田は真剣な顔をしたままで僕の顔を見ていた。「僕は人を笑わせるような人間じゃないし芸人になれるような技術もない。」「技術は今からでも身につくしお前の面白さをみんなに知ってもらいたいねん」「和田ならひとりで出来ると思うしもっといい相方が見つかると思う」「いやお前しかおらんねん!お前は自分のことを知らなさすぎるねん!もっと自信持てや!」「おるわ!世の中にはおもろい人間が沢山いるねん!お前よりもおもろい人間もたくさんおる!そもそも芸人になったからって売れるとは限らへんやろ!お前に責任取れるんかい!」「おれが一番おもろいわ!責任なんか取れるか!そんな世界ちゃうわ!」「なに開き直っとんねん!お前が誘ってきたんちゃうんかい」「誘ったのはおれやけど入った瞬間から平等じゃ!黙っておれとコンビ組めや!」「そもそもお前の芸人を気取った態度が前から腹立ってたんじゃ!何が全人類笑かせたいじゃ!そんなこと真剣に言うやつはおもんないねん!!」夜中の公園で怒鳴り合う僕らを、向かいのマンションのベランダから見ていたおっさんが「お前ら夜中にうるさいんじゃ!!喧嘩するなら黙ってやれ!!」と怒鳴った。それから僕達は白い息を吐きながら何も言わず「ペチャッ、ペチャッ」とだらしない音を立てて28分間殴り合った。その音は男女が交わるときの卑猥な音にも聞こえて、男2人が真剣に殴りあっているのに卑猥な音にしか聞こえないそのシュールさに2人とも思わず笑ってしまっていた。

次の日、傷だらけの顔面で大学に行くと周りの人間から鋭い視線で見られたが、そんなことはどうでもよかった。和田はまだ来ていなかったので、教室の一番後ろの席に座って講義を受けていたが昨日の睡眠不足も相まっていつの間にか眠ってしまっていた。

気づいた時には授業が終わっていて教室の中には自分しか居なかった。ノートの真ん中に大きな文字で「なんでお前なんかに馬鹿にされなあかんねん!!部屋とYシャツと地蔵」と書かれていてそれをヨダレがコーティングしていた。ヨダレを服の裾で拭き取ると紙が破れて奥のページの「幸福追求権を」という文字がこちらを覗いた。僕はノートを閉じて「一緒に芸人やろう、進化しすぎたアホな猿」とメールを送った。

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