閃光
いつまで経っても大人にはなれない。過去の栄光を舐めながら明日になったら何かが変わると、根拠のない自信だけを持って、毎日を誤魔化して生きている。その栄光すら他人から見れば鼻を噛むチリ紙程度の物だろう。将来の目標もなければ、満員電車に揺られる気もない。世間体や親の目線を気にして一応就職活動を始めたが、どこにも受からないように面接中ずっと白目をしながら、昨日の晩に食べたビーフシチューのことばかり考えていた。プライドが高いから周りのアドバイスや意見を聞く気にはなれず、ただ下手糞な相槌を繰り返すだけだ。周りにはもう働いてる人もいるし、結婚して子供がいる人もいる。皆、休日になると、世の中や人間の汚い部分に対して阿呆面を晒しながら酒を飲んで文句を垂れるが、次の朝には、真面目な顔をして顔を洗い、きちんとした服に着替えて社会の流れに抗うことなく生きている。そんな人間を見下すことでしか自分を保てない。他人の存在を認めてしまうことは、自分が愚かで甘えていることも同時に認めてしまうことになるからだ。
夜中の3時、誰もいない道のど真ん中を走っていた。この時間だけは、まだ自分の味方の気がしてどこかに行けるような気がする。しばらく走っていると、いつものように後ろから足音が聞こえてきた。過去の自分の幻影が後ろから追いかけてきて、現在の自分を追い抜かそうとしてくる。足音が徐々に近づいてきて右斜め後ろで止まった。
駆け引きの世界では一瞬の隙が仇となる。救急車の音に気を取られている一瞬の隙をつかれ、抜かされた。追いつこうと、踠けば捥がくほど差は広く一方だった。目の前に、過去の自分がいる。これ以上競うのが馬鹿馬鹿しくなってそこで走るのをやめた。すると、過去の自分がこちらを振り向き、ニヤリと笑った。地面に座り込むと一気に汗がダラダラと流れ、嗚咽が止まらなかった。吐こうと思ったが胃の中は空っぽで何も出てこない。喉が傷み、頭の中で救急車のサイレンの音が鳴り響いた。しばらくの間、過去の自分の背中が遠くの方に薄らと見えていたが、やがて闇の中に溶けて見えなくなった。
吐きそうになりながら、なんとか立ち上がって、近くにあったカーブミラーに自分が映っているのを眺めた。顔面全体に、大きく 後悔 という文字が書かれている。ミラーに映った文字は反転しているので、一瞬 何が書かれているのか分からなかったが、さっきマッキーを使って、自分で自分の顔面に書いた時のことを思い出した。昔から広辞苑を適当に引いて、拾った文字を顔面に書く癖があった。大人になるに連れて、顔面に文字を書くことはいけないこと。ということに気づき、昼間は書くのをやめた。この時間は、顔面に文字を書いていても誰に見られることもないし、顔面に文字を書いたまま、夜中に走ることがやがて日課になった。表情と文字とのギャップが面白く、ポジティブな文字を書いたときは唾を吐いたり、ネガティブな文字を書いたときは野良猫に餌をやった。その度に近くのカーブミラーに映る顔面の文字と表情を眺めた。
1時間ほど眺めた後、足の裏にドクドクと流れる血を感じながら家まで歩いて帰った。シャワーを浴びる気力もなく、そのまま布団に入った。エアコンが付いていないので扇風機を強にするが、音が煩くて眠れない。中だと中途半端な人間だと言われているみたいで腹が立つし、弱は涼しくない。結局、扇風機も消して地獄のような暑さのまま眠りについた。微睡の中で顔面の 後悔 の文字が溶けて、口に入っていくのを感じた。
朝起きたら昨日の自分に腹が立つ。汗で布団や服がビショビショになっていた。すでに暑いのに朝の太陽の暑さに目が覚めてしまうことにも腹が立つ。昨日の自分にイライラしながらシャワーを浴びた。頭がガンガンと痛い。顔面に書いていた 後悔 の文字が排水溝に吸い込まれていく。それを半覚醒のまま眺めていると、ふと万引きをしようと思った。万引きをしたことがないから、いつまでたっても大人になれないんだ。何かが変わるためには万引きをするしかない。過去の自分と決別するために万引きをする。やっと正解が見つかった気がした。しかし、万引きをするということを決めたはいいが、何も欲しいものが無い。後で話せるように、出来るだけカッコいい商品の方がいいなと思った。食べ物は腹が減っていると思われても恥ずかしいし、パンクロックのCDは狙い過ぎてる。ゲーム機は子供っぽい。色んな物を考えたが、やはり小説がいい。スタイリッシュな気がする。これといって欲しい小説はなかったが、とりあえず本屋さんにいって決めることにした。
外に出ると、すぐ太陽に見つかり、さっきシャワーを浴びたばかりの身体から汗が噴き出した。空はキモいくらい青く、雲はゆっくりと流れていた。本屋さんまで、ドロドロになりながら40分くらいかけて歩いて行った。自動ドアが開いた瞬間、エアコンの涼しい風が溢れ出してきて、天国にいるような気持ちになった。ここで満足してはいけないと思い直し、とりあえず店員や監視カメラの位置を把握しながら、店内を一周してみることにした。店員はレジに2人と、本棚で作業しているのが2人。監視カメラの数は多いが逃げ切ったら勝ちだ。一回の万引きで警察にまで話が行くことはないだろう。本は、ほとんど読んだことはないけれど、自己啓発本を万引きするのはダサいということだけは分かる。小説のコーナーに行って、端から順番に品定めしていった。聞いたことのあるタイトルはいくつか発見したけれど、どれもこれもピンと来なかった。しかし、二段めの右から30センチあたりにある小説のタイトルを見た時、脳内に電流が走るような感覚に陥った。今となってはよく思い出せないが、本当に電流が走っていたのかもしれない。
村上龍の「限りなく透明に近いブルー」という小説だった。内容は知らなかったがタイトルに猛烈に惹かれた。本を一冊取って監視カメラに見せびらかすように、ゆっくりと尻ポケットにしまった。すんなりと万引きが成功しても面白くない。入り口の近くにレジはあるが、店から出るまではおそらく何も言われないだろう。ゆっくりと歩き、入り口の自動ドアを抜けようとした瞬間「ちょ、ちょっと!」という声が聞こえた。すかさずダッシュで走って逃げた。後ろから「待て!!」という声が聞こえるが、既にかなりの距離がある。成功を確信した。これで大人になれる。足は軽くどこまでもいける気がした。
また後ろからいつもの足音が聞こえてきた。過去の自分だ。万引きが成功してやっと大人になれたはずだった。そんな時にまで、まだ付き纏う過去の自分。無性に腹が立った。今なら過去の自分になんて負ける気はしない。ゆっくりと立ち止まって後ろを振り向き、顔面を思いっきり殴った。過去の自分は、驚いた顔で地面に倒れ、頭を打って痛そうに悶えている。こんな糞みたいな過去は、自分の力で消し去るしかない。倒れている自分に馬乗りになって何度も顔面を殴った。鼻の骨が変な方向に曲がって、唇が切れ、色んな所から血が溢れ出してきた。それでも何度も何度も殴った。今の自分から出ている血なのか、過去の自分から出ている血なのか分からない。辺りが血みどろになって、どこからか空気の抜けるプスゥーという情けない音がした。これでやっと終わりにできる。そう思った瞬間、キャー!という悲鳴が後ろから聞こえた。よく分からない女が騒いでいる。よく分からない女のくせに騒ぐなよ、と腹が立って、また殴ろうと思った。
いつの間にか、過去の自分がさっきまで居た本屋の店員に変わっていた。顔面をボゴボコにされ、血まみれになった店員が「すみません、すみません、許してください」と何度も繰り返し懇願していた。どうやら勘違いしていただけで、追いかけてきていたのは過去の自分でなく、本屋の店員だった。幻想と夏の熱気が混じり合い目の前にある現実が歪んでいるように見えた。「すみませんでした!!」と言いながら、急いで店員の顔面から血をこすり取って集めた。左手を器のようにして血を溜めて、右手で尻ポケットから「限りなく透明に近いブルー」を取り出し、パラパラとめくって文字を探した。
______ 青白い閃光が一瞬全てを透明にした。リリーのからだも僕の腕も基地も山々も空も透けて見えた。そして僕らはそれら透明になった彼方に一本の曲線が走っているのを見つけた。これまで見たこともない形のない曲線、白い起伏、優しいカーブを描いた白い起伏だった。__________
左手に貯めておいた血で、顔面に 閃光 と書いて、近くのカーブミラーまで見に行った。後ろには青い空が広がっていて、顔面には赤い血で 閃光 という文字が書かれている。過去の自分はもう何処にもいない。閃光 という文字はミラーに反転しても 閃光 のままだった。顔面に書かれた 閃光 がどろりと垂れて、口の中に入ってくる。その時、ミラーに映った自分はニヤリと笑っていた。
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