助けとなるか、救いとなるか。
福祉職に就いてからというもの、支援という言葉の意味を模索する日々です。
【支援】
力を貸して助けること。
(デジタル大辞泉より抜粋)
単純に辞書引きしても、当たり前の説明しか検索結果に挙がってきません。
それは、一般的な支援の意味であって、福祉的支援の意味ではないということだと考えています。
では、福祉的支援とは何でしょうか?
ということで、今回は都度リライトしている仕事においての考え方について書いていこうと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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まず最初に、「福祉」の意味のおさらいですが、「しあわせ」という意味となっています。
よく憲法などに登場する「公共の福祉」とは、私たち人間が形成する「社会のしあわせ」と同義だと言えるでしょう。
ですから、福祉的支援というのは、「しあわせのために力を貸して助けること」になるのです。
この福祉的支援という考え方ですが、私は二つの視座で視ることが出来ると感じています。
一つは「支援の在り方」で、「しあわせのために力を貸すとはどういうことなのだろう?」という思考や行動指針と言えるでしょう。
もう一つは「支援をする者の在り様(ありよう)」で、「幸せのために力を貸す人の人格や品格とは?」という私たちの存在意義に触れる部分ではないかと思うのです。
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「支援をする者の在り様(ありよう)」については、私のような未熟者が語ることの出来ないもののように感じていますが、「支援の在り方」は考え続けられなければ福祉従事者としての成長がないでしょうし、何より支援を必要としている人に対して失礼です。
よって、今回は「支援の在り方」を考えてみたいと思うわけです。
人の幸せというのは、数値で示すことのできないモノです。
一度に与えられる総量が大きければ良いのか、長期にわたって逓増することが良いのか、数値化できない以上、考えるだけムダでしょうし、人によって感じる幸福感には違いがあります。
苦しい状況下で励まされることを好む方もいれば、共感されることを望む方もいるということです。
ただ、共通することは、自分で抱えきれない事象を抱えている方に対して、第三者の「支援という名の行動」は、助けであり救いだということです。
この「助け」と「救い」、言葉のままに捉えると、どちらも「施し(ほどこし)」のように感じて嫌悪する方もいるかもしれません。
しかし、言葉のままではなく、そこに在る違いに注目して一緒に考えてみたいと思うのです。
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「助け」というのは、物理的なモノもあれば精神的なモノもある表現だと思います。
即物的に「困っている人を助ける」というニュアンスで想像すれば、然したる間違いはないでしょう。
どのような「助け」を必要としており、どのように「助け」をすればいいのか?
これこそ「支援の在り方」に通ずるものであるように感じます。
では「救い」とは何でしょうか?
何が救われるのでしょうか?
私は「心」や「存在」といった見えない部分を支える力が「救い」だと定義したいと思います。
究極的には、物心両面から何度も「助ける」支援と、心や存在に働きかけ「救う」支援に分かれはしないかと考えるのです。
ですが、この「救い」とは、突き詰めて考えれば「支援をする者の在り様(ありよう)」を考えることと同義ではないかと思うのです。
「救い」という心や存在に働きかける力とは、支援をする者の心や存在から発せられる力だからです。
つまり、どういうことか?
結局のところ、「支援の在り方」と「支援をする者の在り様(ありよう)」も、切り離して考えることの出来ないモノだということです。
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さて、全くもって論理的ではなく、矛盾さを含んだ内容になってしまっているとは思うのですが、考え続けることによって、脇に避けた事柄も、必然的に巻き込んで思考というのは広がっていくということだと思うのです。
そして、大切なのは「何が正解なのか?」ではなく、考え続ける力です。
福祉の難しいと感じるところは、正解も、ときには最適解さえも見つからないような状況に陥ることです。
どうしたらいいのか分からない状況下で、それでも「在り方」と「在り様」を掴もうと歩み続けなければ、他者の福祉=しあわせに干渉することなど出来ないと思うのです。
誰かの助けとなる
誰かの救いとなる
ハッキリ言って詭弁であり傲慢でもあるこの言葉を叫び続ける覚悟が、福祉職には求められているのだと、今の私は感じずにはいられません。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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