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「当たり前」と「理論」の違い

ぶっちゃけ、言葉の違いについては調べてもらえば分かることなのですが、個人的に考察として残しておきたいので記事にします。

まずは、それぞれの意味を調べてみましょう。

当たり前
・ 道理から考えて、そうあるべきこと。また、そのさま。当然。
・ ごく普通のこと。ありふれているさま。
(精選版 日本国語大辞典より抜粋・編集)
理論
個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系。また、実践に対応する純粋な論理的知識。
(デジタル大辞泉より抜粋)

特に「当たり前」については、上記記載以外の意味もありますが、本記事で採り上げることがないと判断して割愛しましたm(__)m。

気になる方は、ご自身で検索をお願いします。

それでは進めてまいりますので、最後までお付き合いいただけると幸いです。

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個人的な見解ですが、「当たり前」のことを深掘りしたモノが「理論」だと考えています。

「○○理論」と呼ばれるものの中には、「いやいや…(。-∀-)、そんなこと改めて難しい言葉にしなくてもいいよね…(゚Д゚;)ハヒ‼」と感じるものもあれば、「結局、なんだかよく分かりませんでした」というものもあります。

これらは、結果だけを見れば「当たり前」なのかもしれませんが、着想から考察を経ている過程に関しては「当たり前」ではありません。

この手の話は、ニュートンが「万有引力の法則」を発見した話とリンクします。

大切なのは「当たり前」を、そのまま受け容れてしまうか、批判的思考を働かせられるか、という違いだけです。

たまに「批判的」という言葉をネガティブに捉える方もいますが、そもそも、この思考がなければ「個性」というモノは存在しないと私は考えています。

理論ではありませんが、デカルトの「我思う、故に我在り」という言葉も、批判的思考あっての命題だと言えるでしょう。

批判的思考とは、何かを学ぶ前提となる気づきを生み出すための原資であり、人が人であるために必要な要素なのではないでしょうか?

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世の中には多くの理論が存在し、今もなお、多くの理論が発表されています。

特に私たちの生活に直接作用する理論については、メディアを通じて大々的に報じられることもあり、SNSで波及し、多くの人に届けられます。

現代の情報の拡散で面白いのは、社会に広まるほどに「理論」が希釈されて「当たり前」になっていくことです。

…誰も批判的に考えることなく「そういうものなのか」と受け容れてしまう。

そんな中、限られた、ごくわずかな人たちだけが批判的思考を以って、理論から本質を抽出することに成功しています。

そのような人たちこそが「成功者」です。

情報拡散力を持っていることが、ましてや、お金を持っていることが成功者ではないのです。

思考し続けること、つまりは高いレベルでの継続力を持つことが、成功の前提条件であり、本質を見抜く能力を経て、はじめて何らかの領域で成功を成すのだと私は思うのです。

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私たちは、成功者に倣おうとします。

しかし、「なぜ成功したのか?」という批判的思考を持たないままに模倣を続けたところで、何も得られないのです。

改めて「当たり前」と「理論」を考えると、これらの関係性は非常に複雑です。

「理論化することが当たり前」という状態に至らなければ、批判や考察はストレスになりますし、思考は鈍化すると思うからです。

個人的な意見ですが、「PDCAサイクル」について理論立てて本質を考えれば、呼び方などどうでもいいものだと感じます。

成功者の言葉を鵜呑みにすることが、必ずしも成功に繋がるワケではないと気づくことこそが「当たり前」だと感じるのです。

「守破離が大事」と言いますが、守るべき本質を見抜けなければ、言葉に踊らされるだけです。

本質に至る批判的思考を磨くこと。

「当たり前」と「理論」という言葉の違いを、言葉以上に考えるところから始めてみてはいかがでしょうか?

もちろん、これらは自戒の念を込めて書き綴っているモノで、あなたに強制するモノではないことをお伝えして、今回の投稿を終えたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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