答えを見つけるよりも、問い続けられる人生を。
フォロワーさんを中心に、他の人の投稿を拝読していて、不意に感じたことがあります。
それは、「これが私の答えだ」と言い切れる人と「未だに答えは出ないが今後も考え続けるだろう」と言った余白を残す人がいることです。
おそらく、両者ともに今後の人生の中で、現在抱いている思考は変化することでしょう。
しかし、現段階で一つの答えを出す方が、読んでいて納得感があるし清々しいと感じることがあります。
noteに代表されるように、継続することを苦手とする人は多いと思います。
ですから、「これが私の答えだ」と言い切れる人の記事には、後腐れを感じさせない力強さがあるのでしょうし、そのような記事を好む方も多いことでしょう。
私も内容によっては、支持します。
「考え続ける」というコストを払わずに済むのなら、思考のみならず、人生は非常にシャープで効率的だと思うからです。
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振り返って、自分はどうだろうと考えたとき、私は後者です。
つまり、問い続け、考え続ける側の人間だということです。
だからこそ、答えを出せる人に憧れるのかもしれません。
「ああ…この人のような思考になれたら素敵だな」と。
思えば、これまでの私の人生は自己嫌悪の連続でした。
結果として、答えを決めきれず、ズルズルと思考のムダ遣いをしていると考えるようになり、自己否定することが多くなっていきました。
だからなのか、「正解は自分の中ではなく外にある」と思うようになり、何かの情報を蓄える行為である知識を貪ったり、他者の真意を聴くために心理学や傾聴に傾倒したりしていたのだと思います。
それが、私にとっての一つの答えだったのかもしれません。
ですが、noteによって自分の思考や感情と向き合ううちに、少しずつ自己変容が起こっていると感じています。
自分の生き方を肯定したいという欲求です。
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例えば、地位や名声や権力といった力を得たとき、多くの人が羨望の眼差しであなたを見ることでしょう。
「どうすれば、あなたのようになれるのか?」
そういった問いかけも受けることでしょう。
では、その時が来たとき、あなたは…私たちはどのように答えるでしょうか?
「こうすればいい」という明確な回答を提示するのか、「自分でも分からないから…」と、お茶を濁すのか。
大切なのは「今、ここ」の私たちが、一過性のものなのか、普遍的なものなのか、ということではないでしょうか?
より一層の栄華を極めたい人間は、答えなど出さないでしょう。
答えを出せば、そこが終着点になってしまうから。
より多くの人の幸福を願う人間も、答えを出さないでしょう。
幸福を享受できていない人がいる限り、その答えは絶対的なモノではないからです。
つまり、どういうことか?
個人的な見解ですが、人生の答えを求めて彷徨う生き方ではなく、生まれ落ちた意味を問い続ける人生こそ、きっと私らしいのでしょう。
だから、これからも多くの問いを、私はnoteに綴ることでしょう。
おわり
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最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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