見出し画像

「考えられない」の前と後

「そんなことも考えられないのか⁉」

今でも、このような言葉で指摘されることがあります。

「考える」という行為は、本当に難しいと感じています。

ビジネスでは、社会や経済、あるいは企業の仕組みを理解しなければ考えられないことも多く、プライベートにおいても、自分の経験則の外にある他者の価値観や感情論までは配慮出来ないことがあります。

「考える」と「考えられない」の間には、なかなか埋められない溝があるかのようです。

では、「考えられない」がダメなことなのかと言えば、私はそうではないと感じています。

「考えられない」状態は、経験の積み重ねや他者からの指摘で「考える」に変容できますが、実は「考えたくない」という思考が、自分の価値観を狭め、成長を妨げ、自己効力感(=自信)を損ねている現況ではないかと思うのです。

個人的な意見ですが、人間の思考において、最優先に選択されるのが「考えたくない」という思考なのではないでしょうか?

私たちは元来、ストレスに弱く、変化に弱く、過度な成長にブレーキをかける生き物だと思っています。

つまり、安全で安定だと感じられる環境に依存したいのでしょう。

「コンフォートゾーン」といった言葉もありますが、生物学的に、自らストレスを享受し、変化を求め、成長し続けることは、種の存続を危ぶむ行為でと私は考えています。

現代を生きる私たちの生きる糧となっているのは、食物だけではなくなっています。

私たちは「情報」を取り込むことで、進化と成長を繰り返していると言えるのではないでしょうか。

日々、多くの「情報」にさらされていることで、私たちは進化と成長を「是」とする生き物であるかのように錯覚してしまいますが、本質的には先に述べたように安全・安定を望んでおり、その狭間で生じる思考のギャップが「考えられない」という状況を生み出しているように感じます。

「情報」を得ると何かを考えざるを得ない状況になります。

きっと、「情報」が無ければ、私たちはもっと自由に生きられるのかもしれません。

ですが、現代は情報社会です。

「考えたくない」を選んでしまうと社会での生存競争に後れを取ることになり、「考える」ことは、すでに選択肢ではなく強制になっていると考えられないでしょうか?

だとするならば、「考えられない」は、私たちの生存本能が生み出したエラーコードなのかもしれないと、ふと思うことがあり、記事にしてみました。


ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の投稿は以上です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?