「対価」という考え方
社会には「権利」と「義務」が存在します。
日本では「公共の福祉に反する行為をしない」という「義務」のもと「権利」を主張することが赦されているのだと私は認識しています。
【公共の福祉】
個人の個別的利益に対して、多数の個々の利益が調和したところに成立する全体の利益をさす。
(日本大百科全書より抜粋)
…要するに個人の主張よりも社会の秩序を重んじます、ということです。
これらを踏まえると「対価」とは、権利と義務、個人と社会を両軸として考える必要があるように感じます。
ということで、今回は対価にかかる偏った見解を紐解いていこうと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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【対価】
他人に財産・労力などを提供した報酬として受け取る財産上の利益。
(デジタル大辞泉より)
対価とは、上記の引用文を噛み砕くと「何かをしたら、何かを得る」ことだと言えるでしょう。
身近な例で挙げれば、「善い行いをすれば、”ありがとう”と感謝される」ことや「企業で働けば、給料が支払われる」ことですよね。
当たり前すぎて忘れてしまいそうになりますが、すべては私たち自身が行動を起こすところから始まります。
誰かが何かをしたら、何かをするのではなく、主体的に行動することで、はじめて得るものがあるのです。
また、対価と等価は別物です。
【等価】
価値や価格が同じであること。同価。
(デジタル大辞泉より抜粋)
これも当たり前ですが、等価は概念であり、通常は「他人に財産・労力などを提供した報酬として受け取る財産上の利益」にはどちらかに差が生じます。
ゆえに「対価」なのです。
これは、私たちが別の存在であるように、私たちの思考や価値観も別個なので、等しくなるはずがないのです。
対価は求めてもいいでしょうが、交渉事に等価を持ち出すのはやめた方がいいでしょう。
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現代では、私たちの日常の何気ない一言ですら、インターネットを介して世の中の情報の一つとして拡散されています。
正当性のない主張や、自分だけが利益を得たいという傲慢な欲求も、目にする機会が増えています。
権利を主張するのであれば、果たすべき義務を
自由を主張するのであれば、享受すべき不自由を
個性を主張するのであれば、受け止めるべき多様性を
私たちは、やるべきことについて考える時間を改めて持つ必要があるのではないでしょうか?
やりたいことをしたいのであれば、まずは対価を払うべき。
古びた考えかもしれませんが、公共の福祉や公序良俗といった社会性について、偏った思考になっていないか、考えてみてはいかがでしょうか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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