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社交辞令が通用しない世界
優しい嘘は、嘘でしかない。
私たちは、相手を想うあまり、真意や事実を伝えずに生きる術をもって社会に存在しているのではないでしょうか?
「これを言ったら傷つけてしまうのではないか?」
「自分が我慢すれば、良好な関係を損ねずに済むのではないか?」
ときに、そのような感情は真実以上に大切なものであることもあるでしょう。
しかし、それが通用しないとき、あなたは社会で生き抜ける自信がありますか?
魂同士がぶつかり合うような、虚構を取り除いた世界。
現代のビジネス社会では、人財育成や人財開発といったものにスポットライトが当たるようになってきました。
社会は「人」で成り立っているからです。
冒頭で述べたように、互いに真意や事実を伝えずに生きる術を持った者同士の関係が一般的かもしれませんが、そうではない世界とはどのようなものなのか?
今回は、優しい嘘や社交辞令が通用しない世界という、やや抽象的なテーマで書いてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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私は、障害者福祉施設で働いています。
多くの障害を抱える方と共に、障害者が地域社会で生きていくための方法を日々模索しています。
障害者といっても多種多様で、身体的な機能障害を抱える方は、思考力など内面的な障害を持ち合わせていませんから、社会順応性が高い部類に入ります。
知的障害を抱える方は、障害の軽重の度合いにもよりますが、本人の障害特性に沿った環境支援で、ある程度の社会適応を見せてくれます。
精神障害を抱えている方は、上記の二つと違い、病理的な要素と障害上の特性が混在しており、本人にも周囲の環境にも配慮をしても、その配慮が原因で社会進出そのものが瓦解するリスクもあると私は考えています。
精神(発達)の障害を抱えている方の特性として、下記の三つが挙げられると思います。
1.コミュニケーション能力の欠如
2.社会性の欠如
3.想像力の欠如
これら三つは社交辞令との親和性が低く、ゆえに正しい情報を相手に伝えるためには、肚に何かを抱えて話すことが赦されない状況に陥ることが多々あります。
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「とりあえず」「適当に」「大丈夫」
このような抽象的な言葉は、何の意味も持たないことがあります。
コミュニケーション能力の欠如から、彼らは困っている状況下で困っていると伝えることが出来ない場合があります。
「とりあえずって、なにがとりあえずなの?」
何のオブラートにも包まれていない、むき出しの言葉と対峙するとき、人は本当のことしか言えなくなります。
社会性の欠如から、彼らは困っていることを他人に伝えることが出来ない場合があります。
「適当にやります」
ニュアンスや意味するところを考えることなく行動に移すことがありますから、ストレートな言葉だけが正しく伝わる手段となることがあります。
そして、想像力の欠如から、彼らは自分が何に困っているのかを理解できていないことがあります。
「大丈夫です」
どう見ても大丈夫じゃない状況も、彼らの行動を抑制することには繋がりません。
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その場しのぎの言葉を、彼らは看破します。
それは、一つひとつの行動や言葉が、彼らにとって非常に重要な意味を持っているからです。
社会で生きるために、余すことなく、聞き漏らすことなく、全神経を注いで彼らは人と向き合います。
そこに社交辞令は通用しません。
優しい嘘は、嘘でしかないのです。
抽象的な言葉は、彼らの真剣さを踏みにじるものでしかないのです。
忖度や曖昧さを排除した直接的な言葉に慣れないうちは、接する私たちが困ることも少なくないでしょう。
しかし、その先にある世界は、多様な人々と意思疎通を図れる、今以上に広大な世界です。
あなたの周りに障害を抱える方は居ないかもしれません。
ですが、彼らと向き合う上で大切なのは、人として必要な原初のコミュニケーションだと思いますし、そのことをお伝えして、今回の投稿は以上とさせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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