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自分で選んだ道なのだから…

自宅でオンライン研修を受講中、しつこくインターフォンを鳴らされた方がいて、おそらくは営業や勧誘なのでしょうが、今の時期に訪問に来られることについて感染リスクなどを軽視し過ぎではないのか?と、少し辟易してしまいました。

リモートワークなどが一般化したことで、自宅にいることがイコール余暇ではないとご理解いただきたいな…高望みでしょうけど( ̄▽ ̄;)。

ともあれ、セミナーや研修などに参加すると、その集まりが専門的であればあるほど、自分だけが浮いているような錯覚を覚えます。

正確には、ホントに異端なのでしょう。

どんな業界でも、未経験者が管理職に就くことは稀です。

さらに、OJTやマニュアルも存在せず、未開拓地を開墾しなければならないとは、まさに悔恨…とは感じていないものの、コンプレックスのような感覚は日に日に増していきます。

専門家とは、極める範囲を限定し、その分野において深く掘り下げる能力とそれを許された人が成るものだと個人的には考えています。

現代は、個人が一つのジャンルの専門家となれる時代でもありますが、職業人は、与えられた職域においてのみ、専門性を高められるのです。

私は、器用かどうかは自己判断できませんが、他者から見れば器用貧乏の部類に入る人間なのでしょう。

「何でも屋」に成り下がるタイプの人間です。

…ジェネラリストという言葉が出現してからは、「何でも屋」にスポットライトがあたることもありますが、エッセンシャル思考などでも採り上げられているように、選択を幅を自ら狭められない人間は大成できないのも事実です。

普段は、あまり考えることはありませんが、それでも「あのときの選択が違っていたら…」と過去を振り返ることはあります。

しかし、どんな現実に遭遇していようとも、自分の人生は自分で選択した結果です。

確かに環境因子の影響もあるでしょうし、希望する選択肢がない状況もあったことでしょう。

それでも、岐路に立つたびに、選び取ってきたのが今の人生なのだとしたら、これからの生に意味を持たせていくしかないのだと私は考えています。

過去は将来を照らすためにあるもので、今は過去に別れを告げるものです。

どんなに苦しくても、どんなに悔やんでも、将来というのはいつだって、自分で選んだ道なのだから…。


ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。

明日も研修なので、思いっきり浮いた存在をアピールして来ようと思います(笑)。

今回の投稿は以上です。

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