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人生を激変させる大失敗って何だろう?
前提として、失敗を経ても生存しており、日常生活に支障のない身体的・精神的状態を保つ程度のモノ…としてしまうと、それだけで大失敗の条件として成立しない気がします。
もっとザックリ言ってしまえば、「人生のやり直しがきく大失敗」の定義について考えてみようというのが今回のテーマです。
さて、それなりの年月を生きていれば、それなりの失敗の経験も積んでいることと思います。
しかし、「失敗」や「挫折」という言葉が当てはまる経験は数あれど、「大失敗」には個人の主観や価値観が大いに関係してくるので、一生のうちに何度も大失敗に遭遇する人もいれば、大失敗のない人生を送る人もいるのでしょう。
斯く言う私も、今回のテーマを考えたとき、「大」のつく失敗があったのだろうか?と過去の記憶をたどりましたが、ピンと来るものはありませんでした。
この状態を幸運だと考えることもできるかもしれませんが、ある意味では人生損をしているのではないかと思ったりもします。
大失敗とは、ただの失敗ではなく、とんでもない失敗を指します。
通常の失敗ですら、結構なダメージを自身に与えるのですから、大失敗ともなれば想像するに余りあるものなのでしょう。
これはつまり、「破壊的イノベーション」とも言える事象なのではないかと感じたのです。
どういうことか?
自分の価値観もプライドも固定観念も人生観も、何もかもが覆されることが大失敗だと定義した場合、それは現世での生まれ変わりに近い感覚なのだと思うのです。
もう二度と、同じ過ちは犯さないし、この感情を味わいたくない。
大失敗は、人生を激変させる絶好の機会なのだと思うのです。
良くも悪くも…。
お恥ずかしい話、私は職を失ったことがありますし、離婚したことがありますし、借金地獄を味わったことがありますし、人に裏切られたことがありますし、相当額のゲーム課金したことがありますし、私のせいで人の人生を歪めてしまったことがあります。
改めて「大失敗」について考えたとき、もっとも大きな失敗は「当たり前じゃないことを当たり前だと錯覚していたこと」が、私にとって心に残る失敗だったのではないかと思いました。
仕事があるのが当たり前、適齢期になったら家庭を築くのが当たり前、お金はあるのが当たり前、裏切らないのが当たり前、欲求を満たすのが当たり前、そして、自分には誰かを幸せにする力があるのが当たり前という錯覚…。
私たちにとって、失敗は恥ずべき行為であり、避けたい・隠したい事象ではないでしょうか?
その「失敗」を上回る「大失敗」など、あってはならない人生の汚点だと考えるかもしれません。
ですが、大失敗があるからこそ、人生を改悛し、より良い人生行路を歩めるのなら、私たちがやるべきなのは、失敗を隠したり回避することではなく、失敗から学ぶことなのではないでしょうか?
些末な失敗だと認識している過去の出来事も、しっかりと掘り下げてみれば、「当たり前じゃないことを当たり前だと錯覚していたこと」から引き起こされた惨事だったのかもしれません。
他者から見て失敗ではなくても、自分にとって痛恨の極みともいえる失敗を味わったのなら、そのときこそ、人生は好転し、イノベーティブになっていくのではないでしょうか?
…あくまでも、個人的な見解ですけどね。
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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