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「やった者勝ち」も分からなくはない

昨日、こんな記事を投稿しました。

自分のキャリアについて、後ろ向きに捉えた感じになっています。

自己決定・自己責任というキーワードを含めて、どんな「今」も受け止めることが肝要だと考えています。

では、私の人生は「何でも屋」として、ひっそりと社会に埋もれていくのか…と言えば、そうでもないかもしれない!というのが、今回の記事です。

私たちは、自分の評価について、過少であったり過大であったり、今一つ正確に把握できない傾向にあるのではないでしょうか?

それゆえに、他者と比較してしまったり、勇気が出なかったり、不必要な自己嫌悪に陥ってしまったりしているのではないかと個人的には考えています。

すごく抽象的なことを書きますが、日々の生活の中で、自己や他者によって過少評価が下されたと感じたときには行動に、評価が過大に評価されたときは思考に比重を置くようにしています。



評価が下がったとき、何もせずに評価は上昇しません。

だから行動します。

評価が上がってしまったときは、何もせずに考えます。

上がったままなら、それが正当な評価なのです。

そして、正当な評価に胡坐をかくことなく、もっと出来るように考え、行動するのです。

私は、仕事でもプライベートでも、何かに秀でているモノは何もありません。

ですが、他者からは「特殊」と評価されることが多いです。

「特殊」というのは、おそらく個性なのだと考えるようにしていますし、ある時期からは謙遜をしないようにしています。

謙遜というのは、ある意味では分を弁える日本人的美学なのかもしれませんが、ぶっちゃけ「おもしろくない」のです。

変な話ですが、仮にあなたが誰かに対して「すごいですね‼」と伝えたとき「そんなことないですよ」という返答が最初に想定できませんか?

そして、相手が「そんなことないですよ…」と言ってくる前提で、次の話題を考えているのではないでしょうか?

そんな想定問答を考えているときに「そうなんですよ!すごいんです」とか「ありがとうございます」などと言い返すと、そこには想定外のギャップが起こるので「おもしろい」と感じるはずです。

お笑い芸人さんの「ボケ」も、同じ原理ですよね。

ギャップというのは、脳が刺激されます。

刺激を受けると、記憶に残ります。

すると、「この人は、面白い人だ」という認識が他者の脳にインプットされるのです。

…別に笑いを取れとか、ウケを狙えという話ではありません。

謙遜ではなく、素直に対応すればいいのではないでしょうか?と提案しているのです。



私よりも社会的評価の高い方は大勢いらっしゃいます。

それでも、100人近くの聴衆の前で登壇したり、2年スパンですが登壇依頼があったり、担当者でもないのに呼ばれたりするのは、私の特殊性が面白いのでしょうし、私という人物を記憶する要素となっているのだと考えています。

面白いと感じてもらえると、別の面白いが舞い降りてくることもあります。

先月、論文のテーマとして私の思考の成り立ちについて研究したいという話をいただきました(笑)。

もちろん、私単体のデータをサンプリングするワケではありませんが、こんな機会は滅多にないだろうな…と思って快諾しました。

行動して、謙遜を止め、素直に生きて、考えて、また行動する…。

なんでもかんでも行動すればいいという話ではありませんが、他者と違う部分が見つかったら「やった者勝ち」も分からなくはない。

…そんな話でした。


ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の投稿は以上です。

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