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巨人を飼いならすことは出来ない。

今回のテーマは知恵や知識についての話です。

最後までお付き合いいただけると幸いです。

…先に述べておきますが、プロ野球の「読売ジャイアンツ」や大人気マンガの「進撃の巨人」の話は出てこないので悪しからずm(__)m。

それでは話を進めます。

ウィクショナリー日本語版によれば、

「先人の偉業にもとづいて仕事をすること。またそうすることにより、先人よりも能力が劣る人でも立派な業績をあげられるということ」

という意味が「巨人の肩に立つ」という成句にはあるとしています。

また、「巨人の肩に立つ」という成句は、上記の「Google Scholar」の最初のページにも用いられているほど有名な言葉です。

私たちの生活が豊かなのは、あるいは豊かになるための技術や発見の礎になっているのは、過去を生きた先人たちが多くの情報を現代に残してくれたからに他なりません。

かつてのドイツ宰相のビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言を遺しています。

つまり、人間は経験したことからしか学べないということであり、自分という「個人の経験」だけでなく、歴史上の文献なども含めた「人類の経験」に勝る学びはないということだと私は思うのです。

少年・知識・メガネ・勉強・優秀・成績・蝶ネクタイ・学生・黒板

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ここからは、もしかしたら私だけが持っていた慢心かもしれませんが、先人たちの知恵である「知の巨人=知識」に触れると、まるで自らが賢くなったかのように錯覚していた時期がありましたし、今もそうなってしまうことがあると思います。

しかし、学ぶという行為は自らのモノであっても、その学びを与えてくれた存在と、学びについての道を示してくれた存在を忘れてはならないのです。

例えば、私たちはつい、したり顔で自らの中にある情報をひけらかしてしまうことがあります。

「それって、こういうことだよね」

「それは当然の帰結だよ」

「なぜならば…」

自信とは、知識や技術と紐づいている状態であると私は考えています。

経験知の積み重ねであるとも言えるでしょう。

ですが、「個人の経験」であれ、「人類の経験」であれ、自らの考えだけで因果関係を明らかにすることは少ないと思います。

誰かの存在があって、はじめて経験は情報から知識、知恵へと昇華し、巨人の一部となっていくのです。

過去にどんなに聡明な人がいたとしても、その人を聡明だと評価する人と、証明するモノがなければ、その存在は巨人の形成に何ら関係ないことになるでしょうから。

イラスト・神経・ネットワーク・フラクタル・青・シナプス

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現代では、インターネットによって私たちのように何かに秀でた者でなくても巨人の細胞の一つになれますし、簡単に巨人の力を借りることができます。

巨人の肩に立ち、自分の力だけでは見ることのできなかった景色を目にしたとき、私たちは景色に心を奪われるあまり、巨人の存在を忘れてしまうことがあるのではないでしょうか?

物言わぬ巨人の力を借りることに慣れてしまい、巨人の在るべき姿を忘れてしまっているのではないでしょうか?

私たちの存在も、やがては巨人の中でのみ生きることを許されることになります。

そのとき、自分という存在が巨人の成長に寄与するのか、成長を蝕むのかが問われることになりますし、それを評価するのは次世代の他者によってです。

「巨人の肩に立つ」

その権利を有していると同時に、私たちには、より大きな巨人になるよう成長させる義務があると思うのです。

巨人を飼いならすことは出来ない。

飼いならすことは出来ませんが、巨人に寄与するのも、帰依するのも、寄生するのも、きっと私たちの自由なのです。

あなたはどんな自由を選択しますか?

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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の投稿は以上です。

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