哲学的に考えると、建設的に考えられなくなる⁉
【哲学的】
哲学に関するさま。また、事物や人生などの根本的なあり方を探究するさま。
(デジタル大辞泉より抜粋)
【建設的】
現状をよりよくしていこうと積極的な態度でのぞむさま。
(デジタル大辞泉より抜粋)
私の日本語は、ときに適切ではない場合があるでしょう。
noteで記事を書くにあたり、辞書を引くことが多いのですが、たまに間違えて覚えていることがあります。
それはそれでnoteに投稿しているこその学びなのでしょうが、意味合いや本質というモノを考えてしまうと、文章の勢いがなくなることがしばしばあるように感じます。
つまり、根本的な在り方を主眼に記事を書くと、積極的な態度が逓減するのではないか?という問いに突き当たります。
これは他のnoterさんには、あまり見られない傾向なので、単純に私の文章力や表現力の乏しさが要因だとも考えられますが、私だけに当てはまることでもないように思います。
ということで、今回は思考のバランスについて考えてみたいと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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哲学的と一言で表現してもピンと来ないかもしれませんので、本質的という言葉に置き換えても良いでしょう。
例えば「生きるって何だろう?」と疑問に思ったとします。
哲学的に考えれば、「生きる意味を見つけることが生きることだ」といった具合に、個々人の価値観や思想が複雑に絡まり合って、千差万別な回答が存在することでしょう。
建設的に考えれば、「今日を積み上げて明日へつなぐことだ」というように、自助努力によって将来を前向きに変容させる回答が存在し、それらは個々人の価値観や思想を飛び越えて、私たちの共通認識として捉えることのできるモノが多いかもしれません。
つまり、建設的とは社会性を帯びた解であり、哲学的とはアイデンティティに帰属する解であると考えられるかもしれません。
決して対極的な言葉ではないのでしょうが、この二つを隔てる距離はかけ離れているように私は感じます。
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タイトルにある「哲学的に考えると、建設的に考えられなくなる⁉」というのは、あらゆるところで当てはまるのではないでしょうか?
noteにおいて哲学的とは、詩であったりマインドセットであったり、投稿者の主観に共感できるかどうか?という側面があるでしょう。
また、建設的とはライフハックやビジネスハックといった、客観的データに裏付けされた統計解析による意識の向上が一側面となるかもしれません。
悩みや迷いにおいては、哲学的とは霧を晴らす行為で、建設的とは道標を立てる行為と考えることも出来るでしょう。
この二つは似て非なるモノ、なのでしょう。
世の中には「二律背反」という言葉があります。
【二律背反】
二律背反は、哲学の用語で、ふたつの矛盾する(併存し得ない)命題がどちらも成立し得る状況のことである。論理的根拠に基づき、ある命題と、その否定命題が、同等の妥当性を持って証明できる状況。
現代の 一般的な文脈では、「どちらも正当であり、かつ、互いに対立する主張」を指すような意味で用いられることが多い。どちらも捨てがたいが両取りはできない選択肢、たとえば「商品の品質向上」と「商品の低価格化」、あるいは「環境の保護」と「産業の発展」のような対立。単に「矛盾」や「逆説(パラドックス)」と言い換えても差し支えない意味合いで用いられることも多い。
(実用日本語表現辞典より抜粋)
引用文を読んでいただくと、今一つ的を得ないニュアンスだと感じることと思います。
つまり、哲学的と建設的は対立しているワケではないのです。
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個人的な意見ですが、私個人としては「相克」ではないかと考えています。
【相克】そうこく
相いれない二つのものが、互いに勝とうとして争うこと
(難読語辞典より抜粋)
反対の立場ではないのに、この二つが一人の人間の思考に存在すると、どちらかの主張を、葛藤の末に消さなければ整合性の取れないモノとなります。
noteで謳われる「書くテーマを決める」とは、抽象的かもしれませんが、この「哲学的」と「建設的」の二者択一を指しているのではないでしょうか?
私たちは、曖昧なモノが苦手です。
「ブレる」などと表現しますが、明快な回答をいつだって求めている存在なのです。
ですが、忘れてはならないことですが、「ブレる」からこそ人間らしさが現れるのであり、その葛藤する様子こそが他者を惹きつける魅力となり得るのではないでしょうか?
今回のテーマに正解はありませんが、何か感じていただけたら幸いです。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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