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求めている情報を見つけたら
あなたは、何か調べたい事柄があったとき、どうされていますか?
図書館などに向かいますか?
周りの人に聞きますか?
それとも、インターネットで検索しますか?
私が幼少期の頃は、まだインターネット技術がここまで発展しておらず、今では信じられないかも知れませんが、もっとも効率的に正しい情報を手に入れるには図書館などで調べることが効率的でした。
ところが、今では、誰もが、いつでも、どのような情報であっても、手にする小型モバイル機器で世界中にアクセスすることができます。
本当に、技術の進歩は目覚ましいものです。
あれだけ、何十分も自転車を漕いで、汗をかきながら情報を手にしようとしていた頃が嘘のようです。
また、それだけの労力をもってしても、必要な情報を手に出来る確率は低かったのです。
ただ、現代はあらゆる情報にアクセスできる反面、その飽和した情報に踊らされることが増えてきているように感じます。
すでに市民権を獲得している言葉に「フェイクニュース」があります。
私たちは、簡単に情報を手にすることに慣れてしまい、その情報の信ぴょう性や正当性を疑うこと無く信じてしまっているのではないでしょうか?
それは盲信であり、妄信です。
noteで投稿をされているあなたなら、一度はご経験があると思うのですが、自分の記事の信ぴょう性を上げるために、論拠となる情報を探したことはないでしょうか?
そして、同時に問いたいのですが、反証となる情報を目にしたとき、あなたはどのような行動を取っているのでしょうか?
見なかったことにしていませんか?
反証によって記事を諦めてしまっていませんか?
お恥ずかしい話、私はあります。
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情報とは、データを何らかの形でカテゴライズした集合体です。
情報とは、調理前の野菜などの素材のようなモノであって、それ自体は存在しているに過ぎないものだと私は考えるようになっています。
どの素材を、どのように調理するのか?
情報を必要なケースに適宜当てはめていくことができるようになると、それは知識となります。
どの情報を、どのように用いればいいのか、情報の本質を考える行為が、知識だと思うのです。
では、求めている情報を知識にすることが私たちの本懐なのでしょうか?
私は違うと思います。
調理には、レシピを越えてアレンジすることで、個性が生じます。
知識も同じです。
その人が用いるからこそ価値のある知識。
それは知恵です。
技術の進歩で、情報へのアクセスは容易になりました。
ですが、この知恵へと昇華させる労力は、今も昔も変わりがないように思うのです。
つまり、考える力が必要なのです。
どんな情報でも、求めている情報を見つけたら、まずは知識にしていきましょう。
そして、より深く求めることが必要であるのならば、知恵へと変化させていきましょう。
多くの情報に溢れているからこそ、情報だけを抱えているマジョリティではなく、知恵を持つイノベーターを目指しましょう。
それが、どのような境遇にあっても、より良い生き方を身につけるための手段なのだと、私は感じています。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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