遠慮は浅慮
要するに、良かれと思って他者に気を配ることは、長期的に誰も得しないことが多いということです。
私たちは、ついつい空気を読んでしまって「遠慮」をしてしまいます。
特にビジネスでは顕著だと思います。
上司の機嫌が悪いからと、すぐに連絡や報告をしなかったり、後輩が疲弊している様子だからと注意や確認をしなかったり、同僚との関係性を崩したくないからと不適切な発言を容認してしまったり…。
個人的な我慢であったり、空気を読むだけなら、必要なスキルかもしれませんが、「遠慮」は避けるべきだと私は考えています。
斯く言う私自身が、大いに遠慮をしてしまう性格なので、いかに遠慮が浅はかなのか、身に染みています。
それでも遠慮を繰り返してしまうのは、私的事実として「他者が怖い」という感情であり、突き詰めれば「過剰な自己保身」であると感じています。
このような感覚は、実は幼少期の環境に起因するのではないかとも感じており、社会に出てから、この課題に気付きながらも解決できない人がいる要因だと考えています。
とは言え、「幼少期の環境が原因だから仕方がない」では社会人の回答として不適切です。
ここは、腹を括ってやるしかないのです。
「遠慮」に走ると、伝えるべき事実が歪んでしまう時があります。
誰かを慮ったがゆえに、誰かが享受すべきだった利益を損ねてしまうのです。
そのような権限は、私たちにはありません。
だからこそ、事実を述べ、持論を添えて、他者の評価を待つのです。
社会とは合議体ですから、みんなで結果を受け容れるのです。
…そう考えると、「遠慮」とは「傲慢」ではないかとも感じるのではないでしょうか。
「遠慮」には、文頭で示した語意の他にも含むべきものがあります。
将来に向けて、考えを巡らせることは、ある意味では良いことです。
しかし、歪めた事実は将来をも歪めてしまうということを思慮に入れるべきです。
私たちは、歪めた事実で将来を創生する権利も権限もないはずです。
今のために遠慮するのではなく、未来のために遠謀する気概を、私自身も持ちたいものだと考えています。
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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