「何もしない」をすること
10日ほど前に書いた記事を読み返して感じたことを書いてみようと思います。
参照記事はこちらです。
他の過去記事に書いてあることですが、私は資格取得が趣味であったり、社会人大学生であったり、比較的ビジネスに直結するような休日を過ごすことが多いように感じます。
来月も仕事上必要な資格取得のため、2週間ほど休日返上で研修を受講しますし、3月には現在在籍している大学をいったん卒業するので、大卒資格とともに資格を手にすることができます。
現代は「生産性至上主義」とも呼べるような社会でしょう。
家事や育児においても時短テクニックや効率的なスキルがもてはやされ、いかに時間を有効活用するのかに躍起になっているように感じています。
しかし、よく考えてみてください。
どれだけ生産性を向上させようと効率化を図っても、短縮した作業とは別の作業に追われるだけなのではないでしょうか?
仕事に置き換えても一緒です。
業務の習熟度やPCのショートカットを覚えても、そのぶん仕事が増えるだけです。
そして、自分時間の確保のはずなのに、いつしか「どれだけ多くのタスクを効率的に消化するのか?」が目的になっていないでしょうか?
こういった「仕事は、完成までに利用可能な時間を使い果たすように拡大していく」ことを「パーキンソンの法則」と呼ぶそうです。
個人的な意見ですが、私たちは自由を求めていながら、不自由に縛られることも望んでいるのではないでしょうか?
なぜなら、本当の自由とは「生」に縛られることもない「無」だからです。
極論ですが、生きることに不自由を感じている人にとって、自由を求める行為とは「死」を迎合することなのかもしれません。
私たちがストレスに晒されたとき、死を想起するのはそのためでしょうし、事実として多くの人が「生からの解放=死」を選ばれています。
私は自殺死を肯定も否定もしません。
ですが、自ら命を絶たれる方よりも、ほんの少しだけ不自由を望む心が勝っているから「生」を選んでいるのだと考えています。
それ以外に差はないように感じています。
共に生きる愛する人もいませんし、経済的な余裕もありません。
決して満たされた人生ではありませんが、不自由の中に自由を探すのが今の私の生存目的の一つです。
…なんだか壮大な話になってしまいそうですが、今回書き記したいことはシンプルです。
この「生産性至上主義」の社会で「何もしない」をすることの意味を考えてみませんか?ということです。
休日に身体を動かしたり、趣味を楽しんだり、休息を満喫したりするのは自然なことですが、私たちは、ついつい、そこに意味を見出そうとしてしまうのではないでしょうか?
身体を動かすのが好きだから動いているだけなのに、トレーニングなどと呼んでみたり、本を読みたいだけなのに、自己啓発や言語能力の修得、感性を磨くなどと考えてみたり…。
何かを「好き」の理由は「好きだから」でいいはずなのに、それ以上の意味をつけようとするのは、何か社会に対する言い訳のように聞こえてしまうのは私だけでしょうか?
事実、私自身が、何か高尚なことをしているのだと自己弁護しながら休日に勉強をしているように感じます。
「私はこれだけ頑張っているのだから、きっと未来は明るい」と信じ込みたいのです。
どれだけ生産性を上げても、待っているのは、より多くのタスクだけだというのに。
…そう考えるようになってからは、あえて「何もしない」や「生産性のない」ことを取り入れるようにしています。
時間も気にせず、自分にも他人にも言い訳をしない、今までだったら「堕落」や「怠惰」と感じるような時間の使い方も許容するようにしました。
結果として、何か効果があったわけでも、何かを得たわけでもありません。
それでも、「何もしない」という選択肢が増えたことで、選べる生き方も増えたように感じています。
きっと、「何もしない」は自由ではありません。
しかし、不自由な「生」にあって、それは必要なことなのではないかと、今はまだ感覚的なモノでしかありませんが、感じています。
生きることは不自由の連続であり、社会は私たちに不条理で不合理な現実を突き付けてきます。
そんな世の中だからこそ、社会に押し付けられた「何かをする」のではなく、「何もしない」が大切になってくるのではないでしょうか?
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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