私論に論拠は不要⁉
今さらですが、検索って便利ですよね。
知りたい情報に、誰もがいつでもアクセスできるって、私が生まれた時には想像もつきませんでした。
検索といえば、図書館に通って調べたり、いろんな人に聞いて回ったり…。
それなりに労力を費やしたところで、正しい情報なのかどうかも分からなかったりしたモノです。
しかし、今は手のひらの中に世界が詰め込まれているのです。
今の若い世代の人たちは、辞書を引くよりもググる世代なのでしょうか?
ともあれ、どんな情報にも正解…もしくは正解に近い検索結果が導き出されることによって、逆に不便になったことって無いのでしょうか?
個人的には「私論」について不便になったと感じています。
どういうことなのか?
最後までお付き合いいただけると幸いです。
ーーーーーーーーーー
【私論】
非公式に個人として述べる論。個人的な意見・見解。
(デジタル大辞泉より抜粋)
いわゆる「私が思うに…」という、主張ではないけれども自らがどのように考えているのかを述べる機会は、どんな人であれ、生きている限り遭遇することと思います。
すでに遭遇している人は思い返してほしいのですが、私論を述べる側も、聴く側も、内容について「論拠」を求める傾向になっていないでしょうか?
【論拠】
議論のよりどころ。議論・論証の根拠。
(デジタル大辞泉より抜粋)
…今風にいえば「エビデンス」でしょうか?
たとえば、「○○という理由で、○○だと感じた」といった文章でしょうか。
ビジネスなどでは、大変に重要な要素の「論拠」なのですが、「私論」にまで持ち出してしまうことで、私たちは「曖昧さ」を失っているように感じるのです。
ーーーーーーーーーー
「曖昧さ」を、非生産的であったり非効率の象徴のように感じる方もいるかもしれませんが、私は失ってはいけない社会的要素だと感じています。
たとえば、私たちは一人ひとり違う人間です。
違う人間だということは、そこに違いがあるはずです。
何を以って「違い」とするのか?
そこに「曖昧さ」が必要で、「明確に説明は出来ないのだけれど、確かにあなたと私は違う人間だ」と許容できる幅がなければ、他者との共存は難しいでしょう。
むしろ、違いを明確にしようとすれば、当然に優劣をつけたり、差別の温床になり得る要素も出てきてしまうと思うのです。
「あなたは私より背が低い」
「あなたは私より学歴が低い」
「あなたは私より年収が低い」
得てして、私たちは表層的な部分に囚われてしまう傾向にあるのですから…。
ーーーーーーーーーー
「論拠」を求めると、「私論の平準化」が起こります。
【平準】
平らにすること。でこぼこをなくすこと。
(デジタル大辞泉より抜粋)
要するに「ありきたりな論理」にしかならなくなってしまうのです。
何が正しいのかが曖昧だった時代には、何か根拠がなくても、多くの人を納得させられるだけの熱量が正しさを主張するために求められていました。
「理由なんてない。ただ、心がそう叫んでいるんだ‼」
現在の私たちは、感情にすら「根拠」を求めすぎてはいないでしょうか?
「なんでこんなに悲しいのだろう…?」
理由などなくても、根拠などなくても、人は「曖昧な」理由で感情を抑えきれなくなります。
そこに正解などなくても、言葉に出来なくても、あなたが感じている感覚こそがリアルだと認めてあげることができれば、心はもっと自由になるでしょうし、自分の想いも、きっと解放されることになるのではないでしょうか?
私論に論拠など不要です。
言葉に出来なくても、拠り所などなくても、そこに「それ」はあるのだと、私は考えています。
あなたはどうでしょうか?
ーーーーーーーーーー
ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?