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土曜日は ひきこもり

特に意識をしていたわけではないのですが、ここのところ、土曜日は一歩も外に出ることなく終わることがほとんどです。

理由はいろいろありますが、その中でも大きな要素は在籍している大学の学習に充てているからでしょうか。

ちょうど春期の期末試験の真っ最中で、昨日もつぶやきだけ投稿したあと、試験準備に追われていました。

…画像すら貼れなかったことが悔やまれる…(;´・ω・)。

ともあれ、「ひきこもり」の本来の定義とは、厚生労働省が下記のように位置付けています。

「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」を「ひきこもり」と呼んでいます。
「ひきこもり」は、単一の疾患や障害の概念ではなく、様々な要因が背景になって生じます。

つまり、たった一日程度、自宅から出なかったからと言って「ひきこもり」ではない、というのが本当のところです。

しかし、私を含め、社会一般で「ひきこもり」という言葉は市民権を得て、独り歩きするようになってきているのではないでしょうか?

「引きこもっていた」が差別的発言ではなく、一過性の状態として認知されてきている、と言ってもいいのかもしれません。

…となると、慢性的な「ひきこもり」との差異は言語的に境界があいまいになっているとも言えるでしょう。

要するに、それくらい私たちにとって「ひきこもり」は「デファクト・スタンダードな言葉」になっていると私は考えています。

女性・ファンタジー・女の子・蝶・夕日・孤独・草原・夢・シルエット

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さて、ひきこもりに限った話ではありませんが、言葉は、どの視点から事象を捉えているかで世界観が変わります。

例えば「井の中の蛙大海を知らず」は、大海を知っている側の視点であって、井の中にいるカエルにとっては、井戸が大海と同義であるでしょう。

ひきこもり、も同じです。

私には休日の楽しみとして、外食のために外に出る習慣がありました。

それが、つい数ヶ月前から、今日のように一切外出しない生活に切り替わったので、自身の生活について「ひきこもり」という表現を用いました。

では、厚生労働省の定義にあるような6ヶ月以上もの間、自宅から出ることのない生活をしている人の考える世界観や人生観、さらには「ひきこもり」の定義とは何なのでしょうか?

私には、それほど長い期間を自宅だけで暮らしたことがないので分かりませんが、自宅が世界のすべてだという生活にも、きっとつらさや苦しみがあると思うのです。

そういった「感情の仮説」を以って臨むことを、私は常に意識して他者と接するようにしています。

自分と同じ国に生まれ、同じ言語を用いていたとしても、私たちは誰一人として「同一」ではないのですから。

…と、そんなことを考えながら、明日もまた試験があるので、今日はこの辺で失礼します。

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最後までお読みいただきありがとうございました。

今回の投稿は以上です。

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