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静寂者ジャンヌ 23 子連れ静寂者 旅に出る

前回の続きを書こうと思ったのですが、たまにしかアップしないのに、いつまで同じこと書いているのか。もういいから。早く物語を進めたほうがよくないか・・・そういった趣旨の言葉を、何人かからいただきました。たしかにごもっともで。

とりあえず第二部に進みましょう。
前回の続きは、また今度、次の次ぐらいにでも。

さてさて、ジャンヌの諸国遍歴のはじまりです・・・

1 ジュネーヴが呼んでいる

自己の内なる旅路の果てに、長い長い暗夜をくぐり抜けて、ジャンヌはついに夜明けを迎えた。〈消滅〉=〈甦り〉の境地に至った。無限に広がりゆく自由。もはや安らいを意識することもない。純粋なやすらい。すべてがおのずから成る。自然のこころもち。

そこから今度は、外に出て行く。

というか、もう外も内もなく、内なる旅は、そのまま外なる旅にもなる。

〈神〉に動かされるままに、ジャンヌは、他者へとはたらきかける。

人々のただなかへ・・・


ジャンヌは突如、ジェネーヴ行きを決意する。
あのスイスのレマン湖沿いの都市ジュネーヴだ。ジュネーヴは、当時から150年ほど前、カトリックのサヴォワ公国の影響下から脱し、共和国が樹立され、以来プロテスタント改革派の拠点となっていた。

なぜ、そのジュネーヴに?

少し時間を遡って、ジャンヌの内面を辿ってみよう。


2 「あなたは恩寵のうちにいます」

ジャンヌが〈夜〉の底で〈死〉に至り、
その〈死〉も死んで、いよいよ〈消滅〉にいたる。
その時期のことだった。

ジャンヌの家で働いていたさる人物が、聖職者になりたいと決心した。自分の郷里のあたり、ジュネーヴ管区内の修道院に入りたいと、ジャンヌに相談をもちかけた。

ジャンヌは、たまたまジュネーヴ管区の、とある修道院長と面識があった。ずいぶん前に、ちらっと会った程度だったのだが。ジャンヌはその修道院長に、彼を紹介する手紙を書いた。(〈死〉の境地にあっても、日常でこなすべき事は、てきぱきとやっていたのだ。)その手紙の最後に「自分は神に見捨てられた者でしかありません」と、ちらっと心情を吐露するようなことを書き添えた。彼女にすれば、挨拶程度に書いたものだろう。だが、相手の聖職者は鋭く反応した。すぐに「いえ、あなたは恩寵のうちにいます」と返信してきたのだ。このフランソワ・ラ・コンブ  François La Combe (1640 - 1715) という名の聖職者は、鋭敏な直感力の持ち主だった。この彼の返信が、ジャンヌの内面において〈夜〉を抜け出る大きなきっかけとなったのだ。

ストーカー男の被害にあって、「ふしだらな狂女」という中傷が町中に広がり、孤立無援だったジャンヌにとって、やはり、なんだかんだ言っても、自分を肯定してくれる一言が重要だったのかもしれない。そう考えてもいいだろう。しかし、ジャンヌがそうした世間的な評価をすっかり超えていたのなら − そしてたぶん、そうだろう − 彼女はラ・コンブが自分を肯定してくれたから反応したわけではなく、おそらく、ラ・コンブの返信に霊性特有の正確さ、精密さとでも言おうか、寸分違わぬ、びしっとストレートに当ててくる何かを、ジャンヌは直感で受け止めたのではないか。彼女もまたラ・コンブに劣らず、超絶的に鋭敏な直感力の持ち主だったことを忘れてはなるまい。

それからというもの、ジャンヌの意識と無意識のあわいに、「ジュネーヴ」という言葉が、しきりに浮上したという。


3 夢告

ある夜、ジャンヌは夢を見た。

ある夜、夢に小さな異形の修道女が現れた。彼女は死んでいるかのようだったが、幸せそうだった。彼女がぼくに言った。「妹よ、伝えたいことがあってやって来ました。神があなたをジュネーヴに求めています。」それからも彼女はぼくに何かを言っていたが、覚えていない。ぼくはこの夢でとても癒されたが、それが何を意味するのか分からなかった。

ジャンヌは、いくつかの節目で、こういう夢告のような謎の夢を見る。ジャンヌは終生、啓示や予言のたぐいに非常に慎重で、むしろ懐疑的だった。しかし、こと夢に関しては敏感だった。
夢を実に詳細に憶えていて(夢日記でも録っていたのだろうか)、それを長い時間反芻し、あれこれと思いを巡らすのだ。

ちなみに、この夢に登場する不思議な修道女はジャンヌの印象に強く残り、その後ずいぶん経ってから、その人物がラ・コンブに多大な影響を及ぼした実在の修道女だったと思い当たることになる。(1)

ジャンヌの意識に「ジュネーヴ」という言葉が、ますます謎めいた色彩で、鮮明さを増していった。


・・・こうやって辿っていくと、要するにジャンヌはラ・コンブに触発されて、 ラ・コンブのいる所に行きたかったのではないか?
そう、考えることもできる。
たしかにラ・コンブは、これから見るように、ジャンヌの遍歴で重要な役割を演じる。しかし、ラ・コンブはジュネーヴ管区の聖職者だったといっても、ジュネーヴに居たわけではない。当時のジュネーヴは改革派プロテスタント圏の拠点で、カトリックの神父がのこのこ入れるようなところではなかった。ラ・コンブはカトリックのサヴォワ公領内だったトノンの修道院にいた。だが、ジャンヌはトノン行きを目指したわけではなかった。彼女のめざした目的地は、あくまでもジュネーヴだった。たとえそれがイマジナリーな「ジュネーヴ」だったとしても。

4 それなりに合理的選択

それにしても、〈消滅〉=〈甦り〉の境地にやすらうジャンヌは、世間と隔絶して、子どもたちの面倒をそれなりにみながら、森でひとり静寂のうちにやすらっていることだって、できたのではないか?

そんなことを言われても、〈神〉の意志に動かされているだけなのだから、どうしようもないのだ・・・と、ジャンヌは答えるだろう。しかしそれだけではなく、よくよく彼女を取り巻く日常環境を検討してみれば、彼女の取った選択は、実は案外、合理的だったのだ。

当時のジャンヌは、夫が亡くなって5年が経ち、親族たちに再婚を迫られていた。当時、若くして未亡人になった女性は、再婚するのが当然のコースだった。女性がおひとりさまのまま、自分自身のイニシアティヴで人生を拓くといったことは、あまりなかった。それにジャンヌの親族はなによりも、ジャンヌから亡き夫の遺産を引き剥がしたかったのだ。しかし、ジャンヌは再婚を拒否し続けた。そのため親族から、ただならぬプレッシャーがかかっていた。

その一方で、ストーカー男が執拗にジャンヌにつきまとっていた。彼女がふしだらで不信心な女だと、さかんにデマを言いふらしていた。たとえば、ジャンヌが子どもの家庭教師と歩いているときに、たまたま水たまりがあり、それを避けるために家庭教師がジャンヌの手を取ると、さっそく、ジャンヌが家庭教師とできていると言いふらすのだった。(ストーカー男は、ずっと尾行していたわけだ。ちなみに、ミソジニー社会の常として、相手の家庭教師は特に問題にされない。)ジャンヌの根拠のないスキャンダル・デマが町中に拡散され、ジャンヌと親しかった者も、みな彼女から離れて行った。ジャンヌは町を出歩くのも困難な状況に追い込まれていた。そしてどうやら、親族もこのデマの片棒を担いでいたらしい。(ジャンヌを尾行していたのは、必ずしもストーカー男ではなかったかもしれない。ジャンヌの家の者の密告かもしれない。)もし、家や世間の同調圧力に屈従せず、あくまでも自分を貫き通すなら、ジャンヌは町を出るしかなかっただろう。もっとも、修道院に入るという選択肢も、あるにはあった。町には亡き師グランジェのいた女子ベネディクト会をはじめ、複数の修道院があった。たしかに結婚前のジャンヌは、修道院入りを希望していたのだが、しかし、この時のジャンヌはもはや修道院入りを考えていなかった。

とすると、やはり出るしかない。しかも、親族が追ってこないように、なるべく遠くに行くしかない。ジャンヌにとって、フランス語が通じる世界で、最も遠い地が、スイスのジュネーヴだったろう。(2)


5 「迷えるたましい」

そもそも、ジュネーヴに行くとして、ジャンヌはいったい、そこで何がしたかったのか?

本人にもよく分からなかった。ひたすら恩寵の招きに従うばかりだったのだが、ただし、自伝を読むと、「迷えるたましい」を救い導きたかったと書いている。「迷えるたましい」とは、この場合、プロテスタント信徒のことだ。病気のプロテスタントの女性たちを介護し、彼女たちに〈内なる道〉を伝え、カトリックに改宗させる・・・漠然とそんなイメージを思い描いていたようだ。つまり、この時点でジャンヌは、プロテスタント信徒をカトリックに改宗させることが正しいことだと思っていたわけだ。

当時のフランスはルイ14世による絶対王政の時代だった。 ヴェルサイユ宮殿で、金ピカのハイヒールを履いて、絢爛たる孔雀のように踊っていた、あの太陽王だ。 ルイ14世は、「一つの国、一つの王、一つの宗教」と、何でも自分を中心に一つじゃないと気がすまなかった。彼にとって、フランスはカトリック信徒だけが存在する国でなければならなかった。ちょうどジャンヌがジュネーヴ行きを考えた頃、ルイ14世はプロテスタントへの迫害を強めていた。プロテスタント信徒の権利を次々に剥奪し、数年後には、プロテスタントの完全非合法化に踏み切ることになる。人々は権力に同調し、それに積極的にのっかって、マイノリティーのプロテスタント信徒排除に熱を入れた。

ジャンヌはモンタルジの小さな世界で、日常を生きていた。教会関係者からも常日頃、そうしたプロテスタント排除の言説を耳にしていただろう。他に情報もなく、権力による一元的な情報操作による、ふわっとした暴力的な世論を、ジャンヌは鵜呑みにしていたにちがいない。



6 「さもなくば狂っている」

当然のごとく、ジャンヌのジュネーヴ行きは難航した。
当時のジュネーヴは、ようやくフランス特使が接触できるようになったものの、カトリック勢力が本格的に入り込む余地はなく、まして何の肩書きのない一般女性が「迷えるたましいを救いたい」などと言って乗り込むなど、これはどだい無茶な話だった。パリの教会関係者は誰もまともにジャンヌの申し出を聞こうとしなかった。ところが、たまたまパリに滞在していたジュネーヴ司教(ジュネーヴ管区のヘッド)が、ジャンヌの話に食いついて来たのだ。

ジャン・ダラントン・ダレックス(Jean d’Arenthon d’Alex) は、ジュネーヴ司教とうい肩書きではあったものの、ジュネーヴには入れないためにアヌシーを拠点にしていた。その頃、管区での活動が財政難に陥り、金策を兼ねてパリを訪れていた。彼には腹案があった。ヌーヴェル・カトリックという在俗修道会をジュネーヴに誘致することだった。ヌーヴェル・カトリックは、プロテスタントの子女をカトリックに改宗させるための団体で、ルイ14世の肝いりの活動であり、国家的な一大プロジェクトだった。ヌーヴェル・カトリックをジュネーヴに開設して、それを突破口にして、ジュネーヴに食い込もうという腹づもりだったのだろう。そうなれば、宮廷からかなりの財政支援も得られただろうし。(そうとう難しいオペレーションだ。おそらくジュネーヴ司教は、宮廷ルートでジュネーヴ当局側と裏工作を試みたのではないか。)

そのジュネーヴ司教の耳に、ジャンヌの噂が入ってきた。ジュネーヴで活動したがっている大金持ちの未亡人がいる・・・彼はこう叫んだという。「その婦人は大いなる神の愛を得たか、さもなくば狂っているに違いない!」(3)

司教はさっそくジャンヌとコンタクトを取り、ヌーヴェル・カトリックのプロジェクトに参画するよう説得した。ジャンヌは逡巡した。どうやら直感的に、肌が合わないのを感じたのではないだろうか。ヌーヴェル・カトリックは彼女の師ベルトがよく講話に招かれていたので、縁がないわけでもなかった。しかし、そのベルトが亡くなってしまい、相談もできなかった。とはいえ他にジュネーヴ行きのいい話もなく、また、信頼できる聖職者(4)が肯定的な見解だったこともあり、悩んだ末に、ジャンヌはジュネーヴ司教の招きに応じた。

7 家出

ジャンヌは5歳になる娘の手を引いて、周囲に内緒で、家を出た。

ぼくは「聖母訪問の日」の後に旅立った。ぼくは奇妙な〈明け渡し〉の状態にあった。なぜ旅立つのか? 自分でも説明がつかなかった。めいっぱいの愛情を注いでいた愛しい家族を捨て、ポジティヴな保証など何もないのに、それでも希望に反して希望を抱いて、なぜ旅立つのか?

「聖母訪問の日」は、今のカトリック教会では5月31日。ネットで調べたところ、ジャンヌの頃は7月2日。その後というから、7月3日以降だが、日付を確定できない。最終目的地に着いたのが7月22日なので、ともかく、7月中のことだ。
ここでなぜ、ジャンヌがわざわざ「聖母訪問」を持ち出したのか。そこには意味があると考えていい。「聖母訪問」とは、イエス・キリストを身ごもったマリアが、同じ頃に洗礼者ヨハネを身ごもったエリザベトを訪れる話だ。(新約聖書「ルカによる福音書」1章39節〜)シスターフッド溢れる、すてきな場面だが、そこでエリザベトが「あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」と、マリアに呼びかける。それに応じて、マリアが高らかに詠い出す。「マリアの賛歌」だ。楽曲の「マニフィカト」として、バッハの名曲などでよく知られる。その中に、こんな節がある、

主は御腕をもって力を振るい
思い上がる者を追い散らし
権力ある者をその座から引き降ろし
低い者を高く上げ
飢えた人を良い物で満たし
高める者を何も持たせずに追い払い
慈しみを忘れず(…)

聖書協会共同訳 


大変に力強く、頼もしい。社会的視座も定かだ。

あえてこの日を基軸にして旅立ったジャンヌの意気込みが感じられる。

主は御腕をもって力を振るい・・・
ジャンヌはこの箇所を「聖書注解」などで引用している。

ジャンヌは〈神〉に動かされるままに動き、他者にはたらきかける。まさに〈神〉の道具であり、〈神〉の腕なのだ。何をするかは腕には分からない。腕の持ち主だけが知っている。なぜ、こんな無謀な旅立ちをするのか? 自分には分からない。自分をまるごと〈神〉に明け渡すだけだ。(5)

8 夏のセーヌの旅

ジャンヌは、まずパリに出て、そこで法的な後見人と会い、財産管理について手はずを打った。こういうところは、しっかりしているのだ。そして、ヌーヴェル・カトリックのシスターたちと合流し、いよいよジュネーヴ方面へと向かった。まず、パリから船でセーヌ川を遡った。本来なら、川伝いにもっと西南に行けるのだが、親族が探し回っているのを想定して、追っ手の目をくらますために、パリからそれほど遠くないムランで船を降り、あらかじめ手配しておいた乗合馬車に乗り換えた。用意周到だ。

7月のセーヌの旅・・・
どんなだったろう?

船上に立てば、芳潤な夏の香りを、胸いっぱいに吸うことができただろう。
両岸を流れる野や森の青が、鮮やかにきらめいていただろう。
夏の雲がむくむくと、川面に映っていたかもしれない。

ジャンヌの娘が、無心になって、あることをしはじめた。

驚いたことに、船で娘は、自分で何をしているか分からずに、ずっと十字架を作っていた。イグサを人に刈ってもらい、十字架を作り、それでぼくを覆い囲むのだ。そうやって三百以上の十字架を、ぼくに付けてくれた。ぼくは、されるがままにしていた。娘のしていることには訳がある、神秘な訳があると、ぼくには分かった。これからきっと、ぼくは十字架を刈り取りに行くことになるのだろう。この小さな娘が植えた十字架を収穫するのだろう。

きっと川一面に、背の高いイグサ科の草が繁茂していたのだろう。その中を、船が突き進んで行ったのだろう。

幼い娘は、母親の不安を、一心同体になって感じていたに違いない。
母親を十字架で覆って、守ってあげたかったのだろう。
しかし、十字架は、苦を背負うシンボルでもある。
ジャンヌは、これからの苦難を予感した。

娘は無心に十字架を作り続けた・・・

いくらやめさせようとしても、娘は十字架をぼくに付けるのをやめなかった。それを見て、シスター・ガルニエが言った。
「この子のしていることは、なんだかとても神秘的ですね。」
そして、娘に言った。
「お嬢さん、わたしにも十字架を付けてくださいな。」
娘は言った。
「あなたのものではありません。お母さんのものです。」
そして娘はシスターを満足させるために、十字架のいくつかをあげて、またぼくに付け続けた。そうやってたくさん、ぼくに付け終えると、川面に咲く花々を摘んでもらい、それで帽子を作り、ぼくの頭にかぶせて、こう言った。
「十字架のあとに、あなたは冠をかぶらされます。」
ぼくは、ずっと黙って、みとれていた。ぼくは愛に殉じた。愛に捧げられる生贄のように。

これから先、自分は十字架に磔にされるような苦を背負うだろう。最後は荊の冠をかぶらされて、息絶えるだろう・・・
そんな暗澹たる、不吉な予感を前に、ジャンヌは揺るがなかった。
静寂のうちに、ただ、大いなる愛に身を委ねるだけだった。

9 母と娘

最後に、娘のことを書こう。
名は、ジャンヌ=マリー。母親と同名だ。
その容貌も性格も、母親と瓜二つだったという。

ジャンヌとジャンヌ。
この母と娘には特別な連帯感があったようだ。
母の無茶に付き合わされて、旅先で散々な目にあっても、娘はよく育った。結果オーライかもしれないが。でもやっぱりそれだけジャンヌに確かな愛情があったのだろう。ちなみに、娘が生まれた四か月後に、ジャンヌの夫が亡くなっている。娘には父親の記憶が、少なくとも意識の上では、なかっただろう。

長じて、娘はジャンヌの盟友シャロスト夫人の弟、通称ヴォー伯爵と結婚した。そして、ルイ14世を嫉妬させたというニコラ・フーケの壮麗なヴォー城に住んだ。しかし、その夫とは若くして死別した。その後、スュリ公爵という大貴族が彼女に熱愛し、彼の叔母の猛反対を押し切って、二人は結婚した。スュリは彼女にぞっこんだったようだ。華やかな安定路線の人生を歩んだ娘ジャンヌだった。母親と正反対だ。

母と娘は終生、深い絆で結ばれていた。姑に影響されて育った長男が、母ジャンヌを嫌悪し続けたのとは対照的だった。おもしろいことに、ジャンヌの没後、弟子たちが彼女の自伝を刊行しようとした際、娘は強硬に反対したという。まあ、これだけ自分のこと、家族のことをあけすけに書いているのだから、それはまあ、嫌だろう。




(1) 彼女はマリー・ボン Marie Bon 。ウルスラ会の修道女だった。グルノーブル近辺に生まれ、その高い霊性から多くに慕われた。彼女の書いた祈りの本は「静寂者系」に位置し、ジャンヌの祈りに近い。この本のために彼女はカトリック教会筋からバッド・マークを付けられ、不遇の晩年を送った。ジャンヌは後に彼女の肖像画を見て、夢告に登場した人物が彼女だったと悟ったという。

(2)ジャンヌが「ジュネーヴ」に誘われた潜在的な理由の一つとして、ジャンヌ・ド・シャンタル Jeanne de Chantal (1572 - 1641) の存在を挙げることができるだろう。シャンタルは、ジュネーヴから遠くないアヌシーに「聖母訪問会」という新しいタイプの修道会を設立し、その高い霊性で知られた。彼女は、フランソワ・ド・サル François de Sales (1567 -1622)の盟友だった。「聖母訪問会」の共同創設者でもあるド・サルは、ジュネーヴ司教としてプロテスタント信徒のカトリック改宗に力を入れた。(この頃すでにプロテスタントの町ジュネーヴには入れず、アヌシーを拠点としていた。) また、優れた神秘思想家でもあり、彼の『神愛論』などのテキストは、後続世代に大きな影響を与えた。ジャンヌは、少女時代にシャンタルの伝記に感銘を受け、シャンタルの生き方に憧れていた。

(3) Jean Orcibal "ETUDES D'HISTOIRE ET DE LA LITTERATURE RELIGIEUSES ⅩⅥe - ⅩⅧe siècles " KLINCKSIECK (p.800)

(4) ケベックに渡ったマリ・ド・レンカルナシオンの息子、クロード・マルタン(Claude Martin)。

(5)ちなみに、彼女の憧れだったシャンタルが創設した修道会の名が「聖母訪問会」だったことも、興味深い。
なお、「希望に反して希望を抱いて」・・・は、新約聖書のパウロの「ローマの信徒への手紙 4章 18節」が下敷きになっている。日本語訳ではたとえば:「望みえないのに望みを抱いて信じ」(聖書協会共同訳 2018)。「希望に反して希望を信じた」(田川建三訳)


(a)
Il se présenta à moi à quelque temps de là, la nuit en songe, une petite religieuse fort contrefaite, qui me paraissait pourtant et morte et bienheureuse. Elle me dit : « Ma soeur, je viens vous dire que Dieu vous veut à Genève ». Elle me dit encore quelque chose dont je ne me souviens pas. J'en fus extrêmement consolée, mais je ne savais pas ce que cela voulait dire,(…)

(b)
Je partis après la Visitation de la Vierge dans un abandon étrange, sans pouvoir rendre raison de ce qui me faisait partir et abandonner ma famille que j'aimais avec une extrême tendresse, et sans aucune assurance positive, espérant cependant contre l'espérance même.

(c)
Ce fut une chose étonnante que dans ce bateau, ma fille, sans savoir ce qu'elle faisait, ne pouvait s'empêcher de faire des croix. Elle occupait une personne à lui couper des joncs, puis elle en faisait des croix, et m'en entourait toute. Elle m'en mit plus de trois cents. Je la laissais faire, et je comprenais par le dedans que ce n'était pas sans mystère qu'elle faisait cela : il me fut alors donné une certitude intérieure que je n'allais là que pour moissonner la croix, que cette petite fille semait la croix pour me la faire recueillir.

(d)
La soeur Garnier, qui vit que quelques efforts que l'on pût faire, l’on ne put empêcher cette enfant de me charger de croix, me dit : « Ce que fait cette enfant me paraît bien mystérieux. » Elle lui dit : « Ma petite demoiselle, mettez-moi aussi des croix. » Elle lui répliqua : « Elles ne sont pas pour vous, elles sont pour ma chère mère. » Elle lui en donna quelqu’une pour la contenter, puis elle continua à m'en mettre. Quand elle en eut mis un si grand nombre, elle se fit donner des fleurs de la rivière qui se trouvèrent sur l'eau et m'en faisant un chapeau, elle me le mit sur la tête, et me dit : « Après la croix, vous serez couronnée. » J'admirais tout cela dans le silence, et je m'immolais à l'amour comme une victime pour lui être sacrifiée.


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