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なぜ「多文化共生」なのか~自らも”外国人”だったからこその恩返し~

 大学時代以降、いろいろなものに興味を抱いてきた。大学時代は、在日コリアンの人権問題にのめりこんだ。なぜ日本に生まれながら、国籍が違うのか、なぜ差別が起きるのか、そのアイデンティティは・・・。同級生たちと夜なべ続けたこの議論は、「人をヒトとして好きになる」という理念を形成する一つの要因になった。

 これらの気づきをもっと広めたい。記者時代には、赴任した筑豊で、戦時下に強制連行された朝鮮人の無縁仏の遺骨収集に取り組む活動などを追った。次に赴任した佐賀では、中国上海の航空会社・春秋航空の佐賀ー上海便などの動きに密着。新たな空路を生かした国際交流などを取材した。そして、地球市民の会との出会い。

 在日コリアン、国際交流、そして国際協力。その時々で、熱中したものは変わってきた。そして、今、全力で取り組む「多文化共生」。なぜ私はこれほど多文化共生という分野に魅せられるのか。

日本語を話す機会はほぼゼロの環境で

 その原点は、JICA青年海外協力隊(現在はJICA海外協力隊)として2年間を過ごしたフィリピンだ。70日間の日本での英語を中心とした訓練、フィリピン到着後の現地語訓練を経て派遣されたのは、南ビコール州ティナンバック町だ。同州の州都ナガから、ジプニー(ジープ型のバス)に揺られること1時間半。ココナッツプランテーションが農地の94%を占める、農業が主要産業の田舎町だった。

配属されたティナンバック町農業事務所の同僚たち=2016年9月

 フィリピンに着いて、ビコール語(南カマリネス州などで話されるローカル言語)を3週間勉強したら、そのまま町に放り出される。町に、フィリピン人と結婚して移り住んでいた日本人の高齢男性が1人いたが、あまり会う機会は少なく、基本的に生活や仕事は、ほぼビコール語という環境。大学を卒業した同僚たちは、フィリピンの公用語である英語ができるが、支援で回る農村部は、もちろん英語すら通じない。

台風の通り道であるフィリピン。「ニュースが分からない」

 テレビは、全国ニュースやドラマは、もう一つの公用語であるタガログ語。いわゆる、マニラ首都圏で使われる「マニラ弁」で、東京弁が「標準語」になったようなものだ。ただ、日本では英語を学び、その後習ったのはビコール語のみ。フィリピンは、7100もの島があり、言葉は島が違うだけで、まったく違うものとなる。

 例えば、タガログ語で「こんにちは」は「Magandang hapon(マガンダン ハポン)」だが、ビコール語では「Marhay na hapon(マルハイ ナ ハポン)」となる。どちらも「良い午後を」という意味だが、午後(Hapon)以外は、同じ国の言葉とは思えない。

 困ったのが、「災害情報ニュースが聞き取れないこと」。「Alert1」とか「Alert2」とかで災害警戒を呼び掛けているのだが、どのレベルのものなのか、よく分からない。同僚やホストファミリーに聞いても、台風の通り道で慣れっこの皆さんは「大丈夫だよ」と繰り返すばかり。

 そんなとき、マニラにあるJICAフィリピン事務所から「日本語で」台風情報が来るのが、本当にありがたかった。隊員の安全を優先し、時には州都ナガや、巨大台風が近づいたときは、マニラまで退避をさせてくれたこともあった(同僚やホストファミリーを置いていくのは忍びなかったが・・・)。

校友会や県人会で「日本語を話せる」ありがたさ

 このように、ビコール語漬けの生活なので、マニラに上京した際には、堰を切ったように日本語を話したくなる。隊員は、「ドミトリー」という宿舎に滞在できるが、そこでも隊員仲間と遅くまで話してしまう。

 さらにうれしかったのが、隊員以外のネットワークだ。私は大分県出身で、出身大学は立命館アジア太平洋大学。そのため、大分県人会や立命館校友会に参加させてもらった。特に、大分県人会は、派遣前に大分県庁に表敬訪問をした際に、「ぜひ作ってください!」と”密命”を帯びて行ったものだった。

日本料理屋で、「下町のナポレオン」いいちこを囲みながら大分県人会メンバーと=2015年5月

 大分県人会に行けば、自然と大分弁が口を出て、校友会では大学時代の話題に花が咲く。マニラのおいしい店を教えてもらうこともあれば、「隊員生活ではろくなものを食べてなかろう」とご馳走していただくことも。このマニラでの息抜きの時間があるからこそ、2年間のティナンバック生活で、一度も日本に戻ることなく、任期を全うできたと思う。

 そして、ホストファミリーや同僚との交流も、代えがたい思い出だ。仕事がうまくいかないとき、病気になったとき(熱で寝ていてフライドチキンが出てきたときは面食らったが)、いつもそばにいてくれたのは家族や同僚だった。彼らがいるからこそ、フィリピンはタイに並び、大切な国の一つだ。

「横のつながりをつくりたい」タイ人グループづくりへ

 2016年10月に帰国してすぐに、地球市民の会タイ事業/奨学金事業の求人が出て、採用された私は再び国際協力の仕事を続けることになった。

 タイ事業の一環で担当したのが、2017年に始まった佐賀県主催のタイフェアinSAGA(現在はタイフェスティバルinSAGA)という、タイ文化を紹介するイベントだった。そこで、タイ人や、タイ留学経験者などに声がかかり、タイ料理や、タイの文化を紹介するブースをつくることになった。その実行委員会の名前が「サワディー佐賀」。「サワディー」は、タイ語で「こんにちは」。私は、実行委員会事務局という立場で、ロジスティックからイベント会社との交渉、買い出しから前日の仕込みまで、フルで関わった。台風で2日の予定が一日になったものの、社会人になって学園祭のような青春を過ごし、とても楽しい時間だった。

第1回のタイフェア。みんなで楽しみながらブース運営をした=2017年10月

 その時に気づいた。タイ人同士も、大学が違うと「初めまして」の人が多いことを。そして、会場では、日本人と結婚したタイ人が一日中滞在し、久しぶりに話すタイ語を楽しんでいた。

 あ、マニラでの私と同じだ! 「日本人」という共通キーワードで交流をさせてもらった私と同じように、佐賀に住むタイ人も、交流を求めているのだ! 県人会のように、タイ人会みたいなものがあると思っていたが、どうもそういうものはないと。じゃあ、つくってしまえばいい。タイ人が横のつながりをつくる居場所をつくれば、もっと佐賀での生活を楽しんでくれるのではないか。

 こうして2018年1月、実行委員会メンバーを中心に、ボランティア団体としてサワディー佐賀を改めて設立したのが、私が多文化共生領域に踏み出した一歩だった。そしてこれは、フィリピンで”外国人”だった私を支えてくれた、お世話になった人たちへの「恩返し」でもあるのだ。

設立に向けてつくったポンチ絵。拙さは別にして、メンバーのおかげでこの時の構想の多くがこの5年で実現できた

山路健造(やまじ・けんぞう)
1984年、大分市出身。立命館アジア太平洋大学卒業。西日本新聞社で7年間、記者職として九州の国際交流、国際協力、多文化共生の現場などを取材。新聞社を退職し、JICA青年海外協力隊でフィリピンへ派遣。自らも海外で「外国人」だった経験から多文化共生に関心を持つ。
帰国後、認定NPO法人地球市民の会に入職し、奨学金事業を担当したほか、国内の外国人支援のための「地球市民共生事業」を立ち上げた。2018年1月にタイ人グループ「サワディー佐賀」を設立し、代表に。タイをキーワードにしたまちづくりや多言語の災害情報発信が評価され、2021年1月、総務省ふるさとづくり大賞(団体表彰)受賞した。
22年2月に始まったウクライナ侵攻では、佐賀県の避難民支援の官民連携組織「SAGA Ukeire Network~ウクライナひまわりプロジェクト~」で事務局を担当。
2023年6月に地球市民の会を退職。同8月より、個人事業「人とヒトの幸せ開発研究所」を立ち上げ、多文化共生やNPOマネジメントサポートなどに携わる。


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