『女子の教育』
つい先日まで『アンという名の少女(Anne with an E)』というドラマがNHKで放映されてました。言わずと知れた「赤毛のアン」のテレビドラマです。19世紀後半のカナダが舞台の物語で、赤い髪をしたもらい子の成長譚です。子供の頃に読んだ皆さんも多いことでしょう。特に女性にとってはバイブル的な物語なのかも知れません。私もおぼろげながら内容は頭にあったのですが、最近このドラマを見て改めてその内容の素晴らしさに触れています。
アンは本好きのとても頭が良い女の子で、知的好奇心や欲求も旺盛です。養父母もそれに応えてキチンとした学校教育を受けさせようと考えてます。しかし、ただでさえ転入生であるのに、アンの出自もあって学校ではなかなか他の子同様の扱いがされません。ましてや、移民国家カナダの片田舎の保守的な地域コミュニティでの女の子、いや女性の役割はかなり型にはまっています。女子教育に関しても、社会に出る為の教育というより花嫁修行の添え物という色彩が強いです。当時、民主主義が浸透しつつある時期でもあり、物語では女性にも教育や知識が必要とする意識の萌芽が見え隠れします。
ドラマ中、私が一つ興味を持ったエピソードがあります。アンが通学に問題を抱えていることに関して教会の牧師が言うことには、
「女は教育を受けるよりも家の中で家事を学べば良い」
と答えるのです。牧師と言えば、神職の絶対性はもちろんのこと、地域コミュニティの知的中心なのです。牧師の言葉は倫理そのものなんでしょうが、それを受けてアンの養母マリラは、
「牧師さんの言ったことは時代遅れね」
と失意のアンにそう言葉を投げかけます。そして、
「あなたは賢い、可能性を狭めないで」
と続けるのです。
今となっては当たり前なセリフ回しなのに、これが100年以上も前の物語に書かれていることに驚きました。確立した倫理観を覆すことは困難なことです。養母の言葉と言うよりも、このプロットを書いた作者L•M•モンゴメリの意図に驚いてしまいます。西洋人は常に正しさを模索しています。と言うより、修正や更新を厭わない西洋合理主義に驚かされます。
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少し視点を変えましょう。まだ一部の地域では公開中の韓国映画『82年生まれ、キムジヨン』。アジアを中心に世界中でベストセラーになった書籍の映画化です。この映画は結婚出産を経た30代の女性が主人公です。彼女は大卒で広告会社勤務の経験もあります。優しく理解ある男性と結婚し専業主婦をしてます。彼女の半生も描かれ、韓国の現代社会が俯瞰できる物語になってます。
この映画は「ベクデルテスト」と言って、ジェンダーバイアス測定で用いられるテストをクリアしていると言われてます。このテスト、映画やドラマにおける性差の適正さを測るもの。測定は簡単で、「最低でも2人以上の名前付きの女性のキャラクターが登場」し、「女性キャラクター同士の会話」があり、「その会話は男性のこと以外」の内容であること、この三つを満たせばベクデルテストをクリアして適正に性差が描かれてるということなのです。
(残念なことに、そういう「適正な」映画やドラマというものは少なく、得てして偏っています。と言うより、劇中に描かれる女性があまりにも一面的な描かれ方しかしてないということです。半沢直樹を思い浮かべればお分かりだと思います。)
何が言いたいのかと言うと、韓国映画において適正に女性を描けば、女性は日常的に苦しみを抱いているということです。『82年生まれ、キムジヨン』は女性の生き辛さを真正面から捉えた映画なのです。今年度公開された同じ韓国映画の『はちどり』もベクデルテストをクリアしてます。これは女子中学生が主人公で、思春期の心の不安定さと共に、やはり女子の生き辛さが明確に描かれてます。学校や職場、街中のカフェ、そして実家や自宅の中、至る所で女性は窮屈な思いをしてます。女らしさ、妻らしさ、母らしさ、あまりに女性たちは「らしさ」を求められています。「らしさ」の壁に囲まれ、女性はなかなか自分「らしさ」を追い求めることができません。
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これ、他山の石と言って良いものなんでしょうか?
日本はそんなに酷くないけど、って言えるでしょうか?
まだまだ東アジアは儒教思想が根強く、女性を型にはめようとする思潮風土があります。日本社会でも相当に女性に「らしさ」が求められてきました。(もちろん、これは男「らしさ」と表裏一体ではありますが、話が面倒になるのでここでは触れません)
学校教育は男子と女子、均等に勉強をする機会を与えます。今や、女子が勉強することは男子同様に歓迎され、「女子に学問など要らない」などと言われることはまずないでしょう。とても意識が高く、未来のヴィジョンをしっかり持ってる子供はやはり勉強にもキチンと取り組みます。彼女達は、勉強と同時に、補助程度の家事をこなし、行儀作法や立ち居振る舞いへの要求にも応えられてる子が多いように思えます。明らかに同じ成績レベルの男子よりも勉強以外のことをこなしていることになります。こうした優秀な子たちには、順調にキャリアを積んで幸せな家庭生活を築いて欲しいと願うばかりですが、こんなハンデはもうここ数十年言われ続けてることです。10年後20年後の彼女たちは果たして職場や家庭で自分らしく生きていけてるのでしょうか?
無論、こんなに全てをこなせる女子はごく一部で、やはり勉強や学校、家庭に悩む女子は圧倒的に多いです。殊更、進路問題に関しては頭が痛いところです。進学先がなかなか決められない女子は多く、自分の学力と希望のギャップが埋められずに鬱屈してる子が多いです。こっちとしては手を変え品を変え様々な進路を呈示するのですが、結局そういう子は進路の決定が投げ槍になってしまいます。
進学校であっても未だ女子には「手に職を」という考え方が根強く、看護士を筆頭として医療関係の志望が多く、成績が良い子は言わずもがな医師志望ということになります。教職も職業が決まってるコースですし、後は自分の興味に応じた専門的な分野を目指す子もいるにはいるのですが、文学部や商学部といった昔はそれなりに需要があった学部を目指そうという女子は寧ろ少なくなってます。
これは、彼女たちが持ってる情報量の少なさから来てると思うのですが、情報を持たない彼女たちの責任と言うよりもやはり作り上げられてる雰囲気だと思います。自由に未来を展望することをどこかでブロックされてしまう雰囲気です。型にはまった進路を見せられ続けたが故に、頭の中が逸脱しにくくなっているように思えるのです。
男子には何となく理系だから工学部、何となく文系だから法学部、なんて選択はありがちなんですが、女子にとってそういう曖昧な選択の仕方は殆どありません。大学はモラトリアム期間で、入った後にやりたいこと見つければ良い、といった程度の将来展望は男子の特権みたいなものです。少なくとも女子は男子に比べて選択の幅が狭く、それ故に勉強するモチベーションにも繋がり難いところがあります。
こういう話をすると、
「だからこそ勉強しなければならないんだ!」
ってことになりがちです。
しかし、敢えて言います。そこに悪循環があると思います。勉強をするモチベーションが上がりにくい状況にいる人間に対してムチを打って良いものでしょうか?
やはり、環境を整えるしかないのです。彼女たちが自由に未来を選択できる、広い視野で未来を展望できる雰囲気を作ってあげることだと思います。
少なくとも、
「勉強すれば、それだけ良い男に出会うチャンスが増える」
などと口にすべきではないと思います。
「女の子だから甘やかして育ててしまって…」
これも結局裏を返せば、女らしさを押し付けてきたことになります。
私は決して放任しろと言うつもりはありません。我々に染み付いてしまった感覚で無意識に女子を制限しているかもしれない、という認識を一度確認して貰いたいのです。
そう簡単にいかないというのは重々承知です。男であるからまだまだ私の気付きに至ってないところも沢山あると思います。お恥ずかしいところですが、ここ10年くらいでこうした考えが備わるようになりました。これは子供だけではなく、日頃から接するお母様たちのご苦労をずっと見てきたこともあります。母親の苦労を子供が同じように背負い込む姿も見てきました。正直なところ、私自身はこの状況は待った無しだと思っています。
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赤毛のアンから100年程経ってもなお、極東の儒教国の状況には暗澹たる気持ちになりますが、ここからが勝負だと思ってます。女性は勉強して進学して自由に職業を選び、キャリアを捨てることなく社会の中で活躍し、家事も子育ても分業され、専門職に任せることも是認されるべきだと思います。そういう社会ではますます家庭教師も忙しくなりますね。
あ、ちょっと軽口が過ぎました(笑)
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