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「糖尿病は何の罪もない市民が、ある日突然生命の危機に晒される。それは災害あるいは戦争にも似ていて」(©オレ)

今週は月曜日っから大森靖子さん(大ファン)のライブがあって、それも大好物のツーマンライブで(予感どおり?初めて見たお相手の清春さん!に魅了されてしまった!)楽しいのは楽しかったんだけども、その分疲れもたまって夜のウォーキングも一日さぼってしまったりした(糖尿病者としては)
 
ライブハウスに音楽を聴きに行くのが好きで、もう何年もそんな趣味を続けているけれど、そういう日には普段だと晩御飯をゆっくり楽しみながら食べる時間にあたってしまうわけでもあり、遅くに帰宅しては仕方なくカップ麺やおにぎり、サンドイッチなんかを胃に流し込んではベッドに潜り込んで翌日の仕事に備えた。体に良くないだろうなとは思いつつ(これが2月までの私でした)
 
そんな食生活の積み重ねや生活習慣が糖尿病を招いたのは明らかだし、そういう指摘ができる意識(や知識)のたかい層も今はたくさんいるだろう。でもやはり、そのことを知らず気づけず、今もあたりまえに体に悪い食生活を続けている人が膨大にいるのは明らかでしょうよ(明らかどころじゃなく、過半数なんじゃないかな?でも俺みたいなバカはそこまではいないのかなぁ…)
 
でも「食べ過ぎ」って、気づかぬうちに(というか本当は気づいているんだけど)あたりまえになっていき、気づかぬうちに(気づいていても)慢性化していってしまう。なので結果ほんとうに「緩慢なる自殺」なのだよ。それでもいいやと泣いているのがオッサンってものなのか。
 
しかし、それってそんなに罪なのか?ある日突然「糖尿病は治らない」「平均寿命が10年短い」というお告げを聞かされた俺は、そんな俺がかわいそうだったし、とにかく抗うしかないとおもったんだろうな。

これはその結果だと思う。
 

食生活を買えて、毎日歩いた(とくべつなことは何もしてない)

これを協力会社の(旧知の)「ベテラン糖尿病者」に話したら、「ニワカ(糖尿病)だ!」と言われたのも今週のこと。そのときは(なぜか)「来たな」と思ったくらいだったけど、それは薄々感じていることでもあるからか、後々言いたいことがジワジワ浮かんできた。一言でいえば「あなたは直せなかったんだよ。でも無理はないよね」。

※しかし私は本当に「ニワカ」なのだろうか?「糖尿病は治らない」問題については、それに言及している本を発見したので次回にでも触れてみたい。
 
その方もそうだし、まわりにたくさんいることに気づいた、そういう普通のオッサンたちが俺はかわいそうで仕方ないんです。何万何十万か知らないが、過去にもいたであろうがんばって生きていたオッサンたちに罪は無いのだ(もちろんオッサンである必要はないんですよ。念のため)
 
糖尿病は何の罪もない市民が、ある日突然生命の危機に晒される。それはもしかしたら災害や戦争に似ている。という大仰(だけど深刻だと思うから)なことを言いたくて始めたってことをつい忘れてしまう(ちなみに書きたいというモチベーションって『コイツなに言ってんの?』とか思われそう、でもそう思ってしまった。俺は気づいてしまった。そこにこそ宿っている…と思う)日常というのはエントロピーなのかホメオスタシスなのかわからないけど、物理的な法則にやはり圧倒され、流されていってしまうのだろう。
 
「糖尿病が怖い」という人は、糖尿病について知識がある方です。多くの人は「自分だけは何ごともなくこのままごまかせる」「糖尿病なんてなんともない」と思いながら、悪化の一途をたどっていきます。検診などで血糖値の注意を受けても、糖尿病は痛みなどの自覚症状がないため、多くの方は深刻に受け止めることがありません。「ごはんやパンは食べないとエネルギー不足になる」「お菓子ぐらい楽しみたい」「お昼は時間がないから麺類じゃないと」と理由づけをして、変わらない食生活を続けます(『はじめに 糖尿病が怖いあなたへ』P3)
 
そして、もっと問題をはらんでいるのは、血糖値をめちゃくちゃにして糖尿病を発症させる、現代の標準的な食生活にあります(同 P6)
 
(水野雅登『糖尿病の真実 なぜ患者は増え続けるのか』光文社新書より)

素晴らしい本(を見つけた)の素晴らしい出だし


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