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『別府歴史の旅』#3「古代の記録に別府の温泉が!?」


 別府の温泉が歴史の舞台に登場してくるのは、8世紀の前半に作成された『豊後国風土記』になります。


 この『豊後国風土記』には、鉄輪・亀川地区の温泉に関する詳しい記述があり、「赤湯の泉 の西北のかたにあり。この湯の泉の穴は、郡の西北のかたの竈門山にあり、その周りは十五丈ばかりなり。湯の色は赤くして埿あり。用ゐて屋の柱を塗るに足る。埿、流れて外に出づれば、變りて清水と爲り、東を指して下り流る。因りて赤湯の泉といふ」とあります。
 この赤湯については、郡の西北の竈門山に位置すると記載されています。「」とは、速見郡のことですが、直接的には、郡の役所「郡衙」を指します。速見郡が確定されていませんが、これまでの発掘成果などから、8世紀代の遺物が多く出土する別府市北石垣の石垣八幡宮付近が郡衙推定地として有力であるといわれています。そこを中心に見ると、郡衙の北西とすれば、亀川地区の「血の池地獄」を指すといわれています。


 人間の温泉利用という視点で眺めると「用ゐて屋の柱を塗るに足る」など、赤湯の泥の利用に関する記述はあるが、温泉の湯の利用に関する記述はここにはまったく見られません。  
 この当時、高温の湯が噴出する別府鉄輪一帯は、人の保養に使われる温泉とはまったく意識されていなかったようです。
 古代から有馬や紀州の温泉は天皇なども通う温泉として知られていましたが、別府が湯治場、温泉療養の地として認知されるようになったのは確実には中世以降のことといわれています。
 次回は、鉄輪を湯治場として開いた一遍上人と鉄輪蒸し湯の関係について書きます。


《次回》
『別府歴史の旅』#4
「一遍上人と鉄輪蒸し湯」

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