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石野卓球が10年前にタイで語った昔と今と未来の音楽の話

再公開の経緯

この記事は2023年8月末まで運営していたタイでのウェブマガジンANNGLEに掲載されたロングインタビューの復刻記事になります。10年以上前の内容となりますが、今を生きるアーティストへのヒントになったらと思いこちらで再公開したいと思います。

当時のインタビューページ

〜インタビュー本編〜

日本人音楽プロデューサー石野卓球(電気グルーヴ)が2012年6月28日にバンコクの「bedSupperClub」で初となるタイ公演を行った。イベント終了後に昨今の音楽のお話、そして、海外活動への可能性についてインタビューに答えて頂きました。

夜明けて初めてのタイでのイベントの率直な感想はどうでしたか?印象に残った出来事などありましたらをおきかせください。

日本人のお客さんが本当に多くて正直外国にいる感じがしなかったね。もちろんパーティー自体は本当によかったんだけど「初のバンコクでのイベントについての感想は?」となるとちょっと難しいかもしれないな。なんというか「トランジット先の空港でトイレにいってその国の印象は?」と聞かれている感じ(笑)・でも、やっぱり日本人以外のお客さん達も、かなりはじけてる感じがした。よく言えば「パーティーピープル」、「悪く言えばノテーンキ的な」・でも、それは悪い意味ではなくて、音楽を楽しむ上でいいことだと思うしね。

印象に残ったといえば、終わった後にお客さんが押し寄せてきて、一緒に写真をとりたいとブース付近がちょっとごった返したので、撮影後に裏の出口から出たんだけど、その時にタイ人のスタッフから「すごい人気だね!、大変だね!、そんなにハンサムじゃないないのにね!」と、つらっと言われた時はこっちも笑ってしまった。「自分でそんなことわかってるよ!というか、んなこと言われても、って感じだった!」いやぁ木当にタイの人は感覚までもがはじけてるなって(笑)

イベントのきっかけについて教えて下さい。

基本的に海外での初オファーに関してはなるべく行くようにしているので、単純に今回のオーガーナイザーからコンタクトがあった時に即決した。事前にクラブの雰囲気も細かく確認がとれていたので、イベント当日もド・テクノというより、ハウスよりでパーティーっぽい感じした。

テクノミュージックは南国で受け入れられにくいと思っていたのですが、常夏の国タイで今回はどうしてイベントを決意したのですか。

まず、インドやイピザとかでの野外でのトランス音楽の世界普及とかを考えると、特に南国で受け入れられにくいともいえないと思うよ。確かに密室的でミニマルな音楽となると話は別だけど、昨夜のように生々しく音楽とダンスを楽しむパーティーピープルが存在している以上は普通にいけると思うな。でも、確かに南国出身のテクノアーティスト自体は少ないような気がするね。

1989年に電気グルーヴを結成以来、日本のテクノシーンの最前線で活躍を続けている卓球さんですが、当時と今の日本の郵楽音楽シーンの大きな違いはとは一体なんですか?

やっぱりの一番の違いはCDが売れなくなったことだね。昔、特に90年代といのはCD出してミリオンヒットとかいう話もあったりしたけど、今ではそういう流れはまったくない。人も音を楽しむうえでの音楽として、別に何も求めていない感じになってしまった気がする。だからといって音楽を聞く人がいなくなったというわけではなくて、本当に好きな音楽を求めている人は細分化された音楽へダイレクトにつながれるようになったし、自分が好きなモノをだけを探しにいっているみたいなことが普通になっただけだと思う。

んーなんというか「チャート自体がゲームのチャートみたいな、以前あった音楽マーケット自体が全く別のマーケットになった感じ」

もう一つ変わった点としては制作費。というのもあの時代はとにかく音楽制作の業界もバブルな感 じで金銭感覚が麻連していて、例えば「一日30 万円のスタジオに入ってひたすら曲の詩を書いて いる」とか 「お金は空から降ってくるみたいな感覚」。ほんとにあの時代は僕らに限らずみんな狂っていたんだと思うな。

でも、最近ではコンピューターの普及によって自宅でも制作できるようになって大分 コストも下がってきてるので、ある意味、時代にそって本来のカタチに戻ったんだなという感じがしている。この話に関してアーティストとしての考え方も、それぞれいろいろな想いがあると思うけど、僕は その環境が大きく変わる時代の境界を経験できた事がよかったなって思ってる。

最近は国をあげてエンターテイメント事業に投資する国が伸びたりと、日本のJ-POP界は若干押し流されているようにもみえるのですが、90年台の日本の良き音楽シーンに戻すための方法はあると思いますか?

基本的にはもう戻んないと思う。例えて言うならテレビの視聴率と同じで昔はみんなお茶の間で家族そろってみていて、番組によっては視聴率40%とかいうこともあったけど、今はやインターネットなどで個人で見るというのが主体になりつつあるので、個人の趣味で個々興味がに分かれている感じなっているんだと思う。

聴韓国という話をしても「一体だれが聴いているの?」と言う感じでお金を払って聴くというより、どちらかと言うと流れてきているから聴いているという感じじゃないかな。昔一のポンチャックディスコの方が泥臭く個性があって面白いかったのに、なんかよかった灰汁(アク)が削ぎ落とされちゃったような気がしてね。

音源のデータ化や販促方法としてのソーシャルネットワークの普及などにより石野さんが若い時代にはなかった便利なサービスや機材が次々と販売される中で、オリジナル性ある音楽を作るためのポイントとはなんだと思いますか?

自分が言えた義理ではないけど、よく「若いアーティストにアドバイスを!」とか言われるんだけど「好きにやれば」としか言い様がないんだよね。好きにやってない人は辞めていくだけだし。様人によってオリジナルというのは異なるからなんとも言えないよね。「元気があれば、なんでもできる!」。それに近い。

また、石野さんが現在20代だとしたら、どういった行動をとっていると思いますか?

情報と便利な機材がありふれすぎて正直そんなに面白いもの作る自信はないかな・・・というのも、今の若い人がすごいなと思うのがこれだけ沢山の情報があって、常にどれをシャットアウトするかというフィルターが常に身にについて、そんな事言うと古い人間だと思われるかもしれないけど、僕らの時代はまずとにかく自分から求めないといけなかったから、逆にシャットアウトしている場合じゃないという状況だったんだよね。僕もバンドから始まって、当時は音楽制作する上でもかなり制限があって、その限られた中でいかに面白いものを作るかという話の中で先進感が生まれ、「梅しさ紛れ」や「ヤケクソ的」な意識からその先にあるものがカタチになっていた気がして、だから今で考えると「そこまでやれるかな」っていう感じだね。

制作工程に関しても僕が邦楽をリリースしていた1995年当時の制作は、DAT(デジタルオーディオテープ)に録っていたから、録音する時はみんな一発勝負だった。毎回スタッフもモノスゴイ集中カと緊張感を持って作っていたと思うんだよね。でも、コンピューター制作することが当たり前になってからは、いつでも直ぐに簡単になおせるようになった。つまり、それって、いつまで経っても完成しないという状態が続くということにもなって、怖いなと感じる時があったんだよね。コンピューター制作が普通になった2000年の前半の頃はそういう状態にハマって、なかなか曲が仕上がらないということも経験した。スランプということではなくて、1曲を作る間に20曲位のアイデアが入ってきて、最終的に出来上がった頃には、作り始めた時の最初のアイデアが全く別のものになっていたり。制作する上でそれまでとは違った経験をしていたこともあった。やっぱり何事もある程度制限があったほうが、真新しく面白いモノが生まれるじゃないかな。

それは音楽制作ではなくDJとしてのパーティーでもまったく同じことで、毎回どのレコードを持って行くかというより、どのレコードを持って行かないということが重要な感じになっていて、限られた音楽数の中でDJをすることによって、これまで発見できなかった新たな音のマッチングとかも見つけられたりすることもあるから、いいことでもある。「旅の荷物で迷ったものは置いていけ」という感じあるでしょ(笑) 。究極いうとそいう感じ。やっぱり最近モノづくりしている人は特に削ることが一番大変というか、手間かかったりする時代で生きてるんだだなって思う。

プロデューサーとして、またDJとして活動をつづけていく中でいちばんの楽しい瞬間とは?

いろいろありすぎてどれというと難しいけど。やっぱり色々な場所にいけること、そしていろんな人と会えるってことだね。「なんかこいつおもしろいなぁ」とか、「ほんとお前、根っからのヘンタイだな」とか、変わった人の存在を知ることで自分の音楽表現の幅も広がるという感じもするし、あと、「まだ俺大丈夫だとか、安心したりする瞬間があったりもする(笑) あとはDJやっているときにお客さんがいっぱい溜まっている時とか、スタジオで曲を作っていて思い通りの良い感じに仕上がった時とか本当に沢山あるね。

あとは広告関係の依頼を受けた時。CMなどの仕事をすることっていうのは、「ブルペンで肩を暖っためるという感じで面白い」。曲と違って短い時間の中でインパクトを付けないといけないから、普段とは違う制作工程が必要。次のアルバム制作時に新たな変化球をつける様な重要な存在でもあったりして。時々あるボーナスみたいな事も起きるので、音楽の仕事は沢山楽しい瞬間があると思うね。

これから音楽を仕事にしたいと考えている人はどんなことを心がけるべきでしょうか?

最近では新しいアーティストのカタチとして、仕事にしないで音楽活動をしたいという若い人も増えてきてるいるので、よくわからないところだね。仕事にしてしまうと趣味にならないという人が増えてきている。必ずしも仕事になることがいいことなのか、という感じ。昔のように「やるからにはプロ目指して!」という意識を最初から抱かないのも普通になってきたという時代だから、やっぱり何も言えない感じですね。といいながらも言い訳として、単にヤル気がない人も普通にいると思うし。でも、結局は音楽が「フェチレベル」で好きでいられる中でどこまでやってみたいか、という事だと思うな単純に。

9.11の震災、風営法の強化以降、日本人アーティストの海外展開も目立っていますが、卓球さんから思う海外、東南アジアでの音楽活動の魅力や面白さとは何だと思いますか?

やっぱり迷う事なく短期でも一度は海外に出てもいいと思う。人も土地もまったく違う環境で受ける刺激はやっぱり国内では感じることができない独特なものがあるから。なんか最近はテクノロジー進化で、あたかも現地へ行った気になような時代でもあるから、実際にその土地に脚を踏み入れるということは、人柄や、現地の空気を感じるとその後の活動プラスに影響すると思うんだよね。まだ日本人は、パスポートを作れば一週間後にですぐに海外にでれる信用されている恵まれた人種の一人なんだから、兎に角、海外を気になった時点で直ぐに準備してもいいんじゃないかとも思うよ。

最後に・・・・8月のライジングサンロックフェイスティバルへの参戦、そして8月25日のWIRE12に対する意気込みをおきかせ下さい。

バンコクで次のイベントの話をされるのも変わっているけど、ま、五体満足で現場に着くことが第ー。そして、とにかくヤルだけ。って言っても、別に手抜きするわけでもないから、まったくいつもどおりにご心配なく!

昨日もそうでしたが沢山の日本人ファンがbedSupperClubにきました。もし機会がありましたら来年もバンコクに来て頂けますか?

この質問のノリで言ったら「いいとも!」というしかないでしょう(笑) 。今まで初めて行った国 はやっぱりブースに入るまでわからないと言う感じがあったんだけど、今回は全くそれを感じなかったし、また必ず来ますよ。きっと!

石野卓球(D」・音楽プロデューサー):
1989年にピエール瀧らと“電気グルーヴ”を結成。1995年には初のソロアルバム「DOVELOVESDUB」をリリース、この頃から本格的にDJとしての活動もスタートする。1997年からはヨーロッパを中心とした海外での活動も積極的に行い始め、1998年にはベルリンで行われる世界最大のテクノ・フェスティバル“LoveParade”のFinalGatheringで150万人の前でプレイするという偉業を成し遂げる。1999年からは1万人以上を集める日本最大の大型屋内レイヴ“WIRE”を主宰し、精力的に海外のDJ/アーティストを日本に紹介している。日本テクノ界を代表するミュージシャン

取材後記

当時は公演直前にインタビュー依頼を出したため事務所側からスケジュールを合わせられないという連絡がきました。

しかし、当日会場で実際に会い「卓球さん、先日は突然のインタビュー依頼で迷惑かけました」と挨拶をしたところ「あ〜なんか言ってたの君のことか〜、明日は一日あいてるからインタビューはOKだから、そのかわりバンコク案内してよ」と言われて、翌日にバンコク都内のレストランでインタビュー取材をすることができました。

僕はウェブマガジンを始めたばかりで、その後の運営に関していろいろと考えていた時期でしたが、インタビュー後にその件を話すと「自分が実現したいことがあるなら、あまり深く考え込まずに直感的に好き勝手にやることだろ」と言われ気持ちが楽になりました。

インタビューアーとしてはど素人の僕に最後まで丁寧に答えてくれたことに関しては本当に感謝しています。

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