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[ちょっとしたエッセイ]計画のその先にあるもの

 先日、小雨の降る街中を急ぎ足で歩いていると、電柱の脇にふと怪しく淡い色で光るものが目に入った。それはずいぶんと懐かしく、立ち止まってしまった。
 最近は特に減少傾向だろう「それ」は、昔のままの姿で立ちすくんでいる。僕の腹くらいまである1本足になんとなく不安定さが拭えないその自販機は、昭和世代の人間なら「ああ、あったね」とか懐かしんで言える「それ」である。
 でかでかと主張するそのコピーは、未だ健在で、どこか自分とは無縁に感じさせる、古き大人の世界のもののような気がして、自分が童心に帰るような気がした。
 自販機を舐めるように見えていると、近くで人の気配がしたので、振り返ると、若いカップルが少し離れたところで傘を差して背を向けて立っていた。人通りも多くない小雨の中に立っている理由を推察すると、たぶん僕は邪魔なのだろう。
 すぐにその場を退くと、そのカップルは顔を傘で隠しながら、自販機の前へやってきた。人通りが少ないからか、男女の笑い声が耳に届いた。そこにはどこか恥ずかしさがはらみ、こちらもなんだかクスっと笑いそうになった。サラリーマン川柳に投稿するおじさんのような気分が、その道すがら離れなかった。

 「結婚とか、想像できる?」
 そう言ったのは、当時の仕事場でよく一緒にタバコを吸っていた年上の女性だった。デスクが隣で、よくからかわれたり、パシリにさせられたりしていたのだけど、それは苦ではなかった。愛想がよくて、そして何よりいろいろと僕に話してくれたので、僕も自然と心を許していた。
 先ほどの言葉は、高円寺の陸橋で発せられた。僕らはよく仕事の後、駅までの道すがらにあるこの陸橋で、コンビニで買ったビールを片手によく話していた。
 まだ23だった僕には、「え、わかんないっす」が精一杯だった。その人が彼氏と同棲していることは知っていたので、彼女の結婚が関係していると思った。
「え、結婚するんすか?」と尋ねると、「はあ?」とだけ返ってきた。
 その後、会話は進まない。500ミリリットルのビール缶も底を尽きてきた。月影と街灯に照らされた青梅街道に、車のテールランプが幾度となく線を描いて去っていく。そろそろ帰ろうと促して、陸橋を降りた時、あの1本足の自販機があった。
「あ、明るい家族計画」
 なんだかうれしそうな口ぶりで、自販機の前に立つ彼女。僕はまじまじとその自販機を見たことがなかったので、改めて見ると、幼少期に銭湯の脇に立っていた、同じような自販機を思い出した。たまに父親と行った銭湯で、帰り際にこの明るい家族計画って何? と尋ねたが、なんて返ってきたかは思い出せない。思い出せるのは、褪せた外国人の男女の写真とその標語だった。
 当時ですらそんなノスタルジー漂う自販機で、しかも大人になったからこそわかる、その「物」を目の当たりにすると、どこか気まずさしかなかった。すると、彼女が背負っていたリュックを開けてゴソゴソとやり始めた。「どうしたんすか?」と聞くと、「ちょっと待って」と言って僕を制する。僕はその動向を見ながら待っていると、「あった」と声が聞こえた。
「じゃーん」と彼女が取り出したのは、ひとつのコンドームだった。「急になんすか?」と、やや焦る僕は、もしかしたら少し期待していたのかもしれない。
「これさ、高校の時に買ったやつ。そん時もこんな自販機で買ったの。今時、自販機でなんて買わんよね」。
 かなりくたびれたその包装は、もう使えるのかどうかもわからないくらいの年季が感じられた。でも、高校生の時のものを未だに持っているなんて、よほど捨てられない理由があるのだろうと思った。
「もう使えるかどうかわかんないっすね」言葉を拾いながら、僕がそんなことを言うと、
「ってかさ、計画なんて立ててたら、結局使わないっていうか、しないよね。そんなもんじゃね? セックスって」
 そう言って、彼女は新高円寺の駅の方へ向かっていった。僕も慌てて彼女の後ろをついていく。高円寺、23時半。終電が近い。
 あの頃は、そんな感じで振り回されて過ぎていった。

 その後、僕は何かのきっかけでまた自販機の前に立つ。横に女性を連れて。でも結局買わなかった。いざ買おうと思ったところで、あの人の言葉を思い出した。ぼんやりと光る『明るい家族計画』を前にすると、なんだかもういいやとなってしまった。横の女性とお互い笑い合って、コンビニでビールを買って、近くの公園でくだらない話をして朝まで過ごした。計画性なんて皆無なんだ、結局。

 あの傘を差した男女は、自販機の前でどんな気持ちで買ったのだろうか。このご時世、少し歩けばコンビニだってドラッグストアだってあるだろう。『明るい家族計画』は、ある種の矛盾をはらんだ現代の呪いのような気がする。あの時の彼女の一言も手伝って、計画のその先にあるものを考えてしまう。そもそも計画ってなんだろう。小雨もやんだ梅雨空の元、家路についた。
 結局僕は、その後、一度もあの自販機で買ったことはない。

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