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[ちょっとしたエッセイ]忘れてもいい日に

 僕らは毎日さまざまな人の記憶をスルーして生きている。こう書くと聞こえが非常に悪いが、今日が、隣のあの人の記憶に残る日であっても、それを共有していない僕が、それに気がつくことはほぼ無理である。そう考えると、お互いに知らないことを前提に生きている。
 
 先日、友人とふたりで新宿三丁目で仕事終わりに一杯やっていた。40代のおじさん二人で、なんだか人生後半戦についてシメっぽい話をしていると、隣ではスーツをビシッと着て、いかにも仕事ができそうな男性が、どう見ても横についている女性を口説き落とそうとしている。2人で、ああいう人生は、気づけばなかったなあなんて、恨み節を込めながら運ばれた赤玉パンチをすすった。その友人とは、なんだかんだ節々で一緒に行動していて、意外と社会問題に対する認識が似ていた。だから一緒に馬鹿騒ぎしたり、遊んだりという間柄というよりは、一緒にデモに参加したりして、結構フランクに自分の思想や考え方みたいなものをぶつけられる唯一の友人かもしれない。
 この日は、ちょうど店内の小さなテレビに映っていた、渋谷の宮下パークで盛り上がった。今じゃ問題にもなっていないが、宮下パークが出来る前に、彼と宮下公園の再開発に反対するデモに何度か参加した。確かに見た目にきれいではなかったし、秩序もなかったかもしれない。それでも原宿から渋谷を歩く人にとっての宮下公園は、憩いの場所でもあったし、青春の1ページにあの公園が焼き付けられている人も多いのではないだろうか。渋谷のそれ以降に対して、少々愚痴りながら、宮下公園を青春時代に体験している僕らは、もう見られないあの歩道橋からの風景に想いを馳せていた。
 ため息をつきながら、ほろ酔い気分で、隣の方へ目をやると、スーツ男もこちらを見ている。なんだか気まずいので、会釈をして友人の方へ顔を戻す。すると、友人が僕へ合図をよこした。横の男をの方を見ろと。そして、再度、隣のスーツ男を見ると、うれしそうににやけたスーツ男が、こちらに向かって声をかけてきた。
「いや、宮下パークの話、すばらしいですね。私も宮下パークの建物には少し違和感を覚えていまして」
 とりあえず、第一印象は気持ち悪かった。何が気持ち悪かったというと、こちらの会話全部聞いてんのかよということで、女を口説きながら、人の話を聞くという器用さにこちらも少し違和感を覚えた。
「はあ、でも出来ちゃいましたからね。もうしょうがないっす」
「でも、お二人の行動力は、なんだかうらやましい」
 スーツを上手に着こなして、そんな謙遜をされると、ジーンズにTシャツのおじさんふたりはとても惨めになる。とにかく、よくわからなかったが、このスーツ男、こちらの話を聞いた上で、なんらかのアプローチをこちらにしてきていることは事実だった。目的はわからないが、こんな仕事ができそうで、横にほろよいの若い女性をつけている男に、話しかけられてもまるでうれしくない。面倒臭いので、友人と示し合わせて、店を出ようかと試みた。すると、スーツ男は、こちらの行方を遮って話しかけてくる。なんなら、店の人に、こちらにも同じものをとハイボールを注文しやがる。しまいにはLINEの交換まで求められ、その場のノリで交換してしまった。そのあたりから潮目が変わる。
 いきなりLINEでメッセージが送られてきた。
“大変申し訳ありません。横の女性に付きまとわれていまして、お力を借りられないでしょうか”
 その後の僕らは、早かった。めんどうくさい活動家のふりをして、悪酔い、悪ノリでスーツ男に絡み、無事に女性は彼から離脱した。その後、彼に話を聞いてみると、まあ大人の関係だったので、僕らはひがみをこめて、彼のLINEをブロックして帰途についた。
 
 人は見た目の印象だけで決めつけてはいけない。そして、抱えている事情もそれぞれで、やはりそれに気づくことは難しい。気づいたところで、それがよいことかと言えば、そうでもないのかもしれない。
 SNSを見ていると、そんな知りもしない事情を知ってしまったり、中には声もかけづらい赤裸々な告白もある。でもこれらは僕の日常で知ることはないし、知ったところで何もしてあげられない。そして、それらは明日になれば忘れ去ってしまうかもしれない。「知ったところで」と思うことが多々あり、結果としてスルーして生きてしまっているケースも多い。
 ピロリンと携帯が鳴る。忘れ去られて放置したSNSからだった。“誕生日おめでとう”のメッセージが届く。毎年この日だけ通知が来る。この歳になると、「忘れてもいい日」候補ナンバーワンが誕生日だ。祝われることが嫌なのではないけれど、自分の中では、平日のど真ん中と同等の日になっている。まあ、そんなことを他人が計り知ることはできないし、知って欲しいわけでもないので、祝言はありがたくちょうだいして、そっとスマホの画面を閉じる。

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