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[ちょっとした物語]朝が来るまで終わらない音楽を

「いいところってどこよ?」
そう尋ねても、いいからいいからと意に介さない彼女は、ラブホテルやライブハウスの並びを颯爽と歩いていく。僕はキョロキョロと見回しながらついて行く。渋谷のディープな感覚が研ぎ澄まされてた水曜日の深夜1時過ぎ。円山町の中心は、どんよりとした静かな時が流れていた。

「ここです、ここ」
テンションが上がったような高揚を彼女は見せ、僕を置いていくように階段を降りていく。ドクターマーチンのソールがキュッと音を鳴らす。階段を降りていく彼女の後ろ姿を見ながら、奥の扉から漏れる四つ打ちの低音が胸に響いた。

「ねえ」
「はい?」
「なんでこんなとこまで連れてきたの?」
「うーん。理由なんていります?」
「いや」
開かれた扉から漏れる音と、鋭く伸びる赤い光。考えることもバカバカしく思えた。歓声とともに流れてきた、アンダーワールドのボーンスリッピーは、この状況にあたふたしている僕を煽りたてた。

先を歩く彼女の手を取る。彼女が振り返ると目が合う。赤なのか青なのかわからないミラーボールの輝きを浴びながら、釣られるようにカウンターでビールを受け取る。そして、スツールに腰をかけた彼女は、カップのフチに添えられたライムを搾って、口に運んだ。

「明日も仕事なのにごめんなさい」
急に改まったように彼女は話した。

「あ、いや、別にいいよ。クラブなんて久しぶりだったし」
「あのね、私、仕事辞めようと思ってて」
「え?」
突然の告白に間抜けな返事しかできなかった。耳の奥を突くような低音、グラスが鳴る音、汗や人の温度に香るじっとりとした空気に、そこから先の彼女の話はまったく耳に入ってこなかった。

「また、一緒に働く機会があればいいですね」
「う、うん、そうだね」
僕は、気のない返事をし、彼女はビールを一気に飲み干した。
「はぁ、スッキリした」
こんな場所に連れてられたのには、彼女に案外プレッシャーがのしかかっていたからかもしれない。

「もう少し飲んだら帰ろうか」
僕はようやくこの不明瞭な状況を脱し、日常に戻れるのかと思うと少し安心した。だが、先ほど彼女の手を取ったり、多少なりとも下心が見え透いていただろう自分に急激な羞恥心が芽生えた。恥ずかしさとともに、天井を見つめる。空気が甘ったるく重く感じた。

「あの〜」

僕は上の空だった。

「聞いてます?」
「あ、うん。聞いてる」
「帰ります?」
「そうだなぁ。帰ろうかなぁ」
「なんか疲れましたね」
「疲れたねぇ」
明らかに肩の荷が降りたことで、この場所がいかに場違いで、その空気に飲まれていた自分が恥ずかしく、バカバカしくなっていた。

「少し歩きます?」

この子は理由を持って僕を連れ出した。その理由を打ち明けた今、何を思うのだろうか。時計を見るともう3時を回っていた。とはいっても、朝からの仕事はないため、このまま会社に戻って寝てもいいかなとふと考えていた。

「始発で会社戻るよ」
彼女の方を見てそう言うと、少し笑顔を見せた。
「少し歩きましょう」
立ち上がって僕の手を取った。すると、くるりのワールドエンドスーパーノヴァがかかり、小刻みなビートをまとって背中を押した。僕は少し気分がハイになり、目を瞑って体を揺するように、踊った。彼女も僕に体をすり寄せながら同じように踊った。

音楽の中にいると、僕らは純粋なミュージックフリークになる。心地よいダンスミュージックは、額から汗を滴らせ、心をフロアに置いて、赴くままに無心に体を動かすように音を刻む。時に抱き合ったり、頬を重ねたり、まさに赴くままだった。
彼女の首筋を伝う汗がキラリと光った。曲も終盤になると、体も落ち着きを取り戻し、何事もなかったかのように、僕らはフロアを後にした。

うっすらと香るゴミの匂い。朝が近いことを知らせる湿った空気が鼻をくすぐった。少し肌寒い渋谷の街は、異国のようなたたずまいをしている。
僕らは言葉が出ないまま、円山町から百軒店を歩いた。人はまばら、カラスもまだ眠りの中。百軒店の奥にある稲荷神社の前まで来ると、彼女は先を歩き、鳥居をくぐり抜け、社殿までスタスタと行ってしまった。僕はなんとなく、その場にとどまることにした。何を願うことがあるのだろうかと自問した結果だった。
戻ってきた彼女に、何かお願いをしたのかと尋ねると、少し笑って下を向いた。

「世界から暴力がなくなりますようにってお願いしてきました」
それは意外な答えだった。
「でも自己防衛のための暴力って知性と呼ぶらしいですよ」
彼女がなにを僕に伝えたいのかよく理解できなかった。なにも答えずにいる僕を尻目に彼女はチラッと横を向いた。その視線の先を追うと、小さなラブホテルがあった。神社の真横とはと、なんとも背徳的な気持ちになり、彼女の方を向く。

「入ります?」
真顔で言った。
「え、あ、あ」
咄嗟に時計を見ると、午前4時になるところだった。慌てて彼女の方を見る。

パシャ

「隙あり」
携帯電話のなんとも安っぽくて大きなシャッター音に時が止まった。驚きを隠せない僕に向けて、
「まぁいいではないですか」
笑って僕の手をとり、自動扉をくぐり抜けて、その建物の中に入った。
未だに彼女が何を考えているのかわからなかったが、明け方の霧に包まれた街角は、人がひとりでいるにはあまりにも寂しい。すがるように、彼女についていく。

案内された部屋に入ると、彼女は大きな丸いベッドへダイブした。そしてこちらを見て、微笑みながら手招きした。僕がベッドのフチに腰を下ろすと、僕の背中に彼女は背中を合わせて、肩に頭を落とした。

「今日はありがとうございました」
「あ、うん。どういたしまして」

僕が気のない返事をした。

「やさしいですよね」
「やさしい?」

そう言われたのは初めてかもしれない。

「はい。やさしいと思います」
「そうかな?」
「わたし、今、セックスしてもいいと思ってます」

なんと答えればよいのか少し悩んだ。正直に考えると、彼女の言葉と行動に少し期待していた。そしてそれが現実になった今、躊躇している自分がいた。

「それは、僕がやさしいからセックスしたいのか、セックスしたいからやさしい僕がいいのか、どっちなんだろう」

なんとも間抜けた発言だ。言ったそばから後悔しかなかった。

「そこに理由なんていります?」
ため息混じりの返答があった。彼女はドクターマーチンのブーツを脱いで、着ていたトレーナーも脱ぎ捨てた。

「別にイヤならいいんです。迫ってまでしたいわけでもないですから」

その言葉は異様に乾いていた。

「ううん。ごめん。イヤだとかじゃなくて、たぶん僕はそういう風にセックスしたことがないんだと思う」

彼女は、僕の頭を抱きしめた。

「ねぇ、この世界ってどれくらい広いんでしょうね」
「えっ? 世界?」
「はい。世界です。わたしたちのいるこの世界です」
「どうだろう。前に東南アジアをただひたすら旅してみたけど、世界が広いなんて思わなかったよ。たぶん地球の裏側まで行っても変わらないかもね」
「それは、距離的な?」
「距離や面積だけで広いとは、今の時代言えないのかも」
「じゃあ、世界は広いってどういうことなんでしょうね」

彼女は僕の頭をなでながら言った。

「でも結局、そんな旅のような経験はおまけみたいなもので、僕らの足だけで生きられる世界なんて、実は目と鼻の先くらいの範囲が限界なのかもしれないね」
「レキシントンからクインシーまで、みたいな」
「ん?」
「なんでもないです。例えです」
「だから、そういう意味で世界は広いって言えるのかもしれないのかなって、思います」
「思いますって」
「まぁ、そう思ってるよ」

彼女は僕の頭を解放し、枕元に置いた小さなカバンからiPodとハンディのスピーカーを取り出しこなれた手つきで繋いで、曲をかけた。

黒いキャミソールの後ろ姿を見ていると、なんだか吸い込まれるような感覚に陥った。背負っていたリュックも下ろさず、僕は彼女の背中に抱きついた。彼女は背中越しに僕の手を握った。そして、振り向いて僕の頬を両手に包んで、キスをした。

「本当に今日はありがとう。楽しかったです」
「僕もだよ」

そう言うと、太ももに静かに僕の顔を移した。見上げると、髪の影に隠れた彼女の顔は静かに微笑んでいるように見えた。

「セックスしたいですか?」

少しいじわるに彼女は問いかける。

「したいけど、ちょっと眠いかも」
「じゃあセックスはなしで」
「えー」
「そこで、えーって言います?」
「あ、いや、反射的なものです」
「なんでそこ丁寧語になる!」
「ごめん」
「そういうところも好きですよ」

彼女は顔を下ろして、僕の額にキスをする。そして僕は顔の位置をずらして唇にキスをした。少しお酒の匂いと、彼女の香りがした。目をつむって、しばらくそのキスを味わう。舌が遠慮がちに絡み合い、少し息が荒くなる。でも穏やかに、そしてとてもやさしく。

目の前には、始発の時間だというのに、人がたくさん行き交っていた。朝方はずいぶん冷えた。渋谷キューフロントの2階にあるスターバックスで、熱めのドリップコーヒーをすすっていた。
朝靄は空をかすめ、今日という日が晴れなのか曇りなのか一向に明かしてはくれない。木曜日はある種の踏ん張り時だ。明日を越えれば休みが来る。だからみんないつもより少し足取りが軽い。
さっきまでの出来事を思い返した。結局僕は、あのまま彼女の膝の上で彼女のやさしさに揺られた。そして、つい今し方、この目の前のスクランブル交差点で別れた。友人がそれぞれの方向へ向かうために手を振る。それだけの別れだった。でも、たぶんもう会うことはないだろう。そんな感じの別れだった。

この先、僕の人生において彼女のことを想うことはあるのだろうか。舌に響くコーヒーの熱気は、眠気を覚まし、ひと口すすると喉を刺激とともに通過した。
眼前に広がる自然のスクリーンを通して渋谷の朝をジッと見つめる。そして、何もなかったかのように、人々の交差の中へ戻る道しか残されていないことに、僕は笑うしかなかった。

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