[ちょっとした物語] 彼女のシーン
海岸を歩く人たちが、砂に長い足跡を残していく。
過ぎた春を洗い流す波は、行っては来てをくりかえし、その小さな足跡をも連れ去ってゆく。
その去りゆく人たちを見上げては行方を気にして、僕は少し不安な気持ちになる。
キラキラときらめく水面を眺め、僕は大きく息を吸った。
まもなく日が沈むそのひととき。あたりは夏の湿った空気が潮風に乗って、頬をかすめる。
ポケットでひとりかなしく震えるスマートフォンを見つけた。
画面を見ると、「うしろ見て」とだけの簡素なメッセージが浮かんだ。
僕は立ち上がって海を後にした。
海を背中にすると、人々の営みがふわふわと広がって見えた。
信号を挟んだトイメンには、僕を迎える彼女がいた。
「おーい」
そんな僕の掛け声は、虚しくもただ厚ぼったい雲の彼方へと薄れて消える。
「おーい」
眼前にある僕のスクリーン。
ちゃんと映ってくれと願うばかり。
「おーい」
それは、僕と彼女を繋いでる緩やかで止まらない法則。
僕の振る手は空を切る。
「おーい」
やっと気がついた彼女は、幼い子どもを見るような目で、手を振り返しながら僕の方へ目を向ける。
そして、笑いながら少しうつむき、ふと背中を向けて僕から遠ざかるように歩き出す。
風になびくスカーフのあざやかな赤を、僕は見つめた。
小走りで追いかける。
やっとのことで手を取るときには、少し息が切れていた。
「待ってよ」
「はやくこないんだもん」
「だって、信号待ってたから」
「雨が降るかもよ」
「なんで?」
「たぶん。そんな気がする」
彼女は空を見上げて言った。
「そうなんだ。じゃあはやく帰ろう」
僕も空を見上げて言った。
空にはまだ雲が流れ込む気配はなかった。
お互いに目を合わせると、少し間をおいて笑った。
甲高い声で静かに笑う彼女の笑い方は少し変だった。
「ほんとに降るの?」
そう言った僕の顔は、まだ笑顔の余韻を残していた。
「笑い方、変だよ」
急にそんな切り返しをする君は、どことなくスコールのようにいじわるだった。
向こうで、誰かが離した風船が少し急ぐように潮風に乗って駆け上がる。
雨が降るだろう空に向かって。
僕が言いたいのは、この刹那が儚くも美しいことだ。
君の声を聞いて、今の時間を満たしたい。
それだけ。
海が遠くなっていく。
波が消えてゆく。
風が呼んでいる。
君が海を愛するように。
君が海を畏れぬように。
目をつむって記憶のかけらをすくい出す。
それが現実だったのか、空想だったのか、もう区別はつかない。
でもハッキリと頭に残るその情景は、儚くもあたたかく
意識下に焼きついていることは確かだった。
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