[ちょっとしたエッセイ] 真夏の夜のため息
ため息まじりにパソコンから目を外す。
午前1時を回っていた。昨朝から僕らは、この1DKの小さな一室でひたすらパソコンに向き合っていて、疲労もピークを迎えていた。ほぼ軟禁状態で朝までに仕上げなくてはならない映像の編集は途方もなく、時計を見ながら僕はぼーっとするしかなかった。
すると、同僚がコンビニから帰ってきた。
「ポプラの店員がめっちゃ大盛りにしてくれた」
そう言って、うれしそうにチキン南蛮弁当を差し出した。
フタから溢れんばかりの白米が湯気を出して半開きになっている。
朝から何も食わずで、食べることすら忘れていた僕らは、颯爽にその弁当を平らげて、冷蔵庫からコーラを取り出して、二人でベランダに出た。
もうこの時間になると、場所が新宿とはいえ、辺りは暗闇に包まれる。人気も少なく、静かだった。内側からブラインドの閉まったベランダは、僕らを静かに闇へと放り出すようだった。
タバコに火をつけ、コーラの蓋を開ける。
「なんかおもしろいことないの?」
そう話す同僚に、僕はどうでもいい返事を返す。毎日一緒にいると、ほぼほぼお互いの日常はわかっているから、話すことがつまらなくなってしまう。
サッシ窓から漏れるキリンジの『イカロスの末裔』が軽快に流れている。
僕らは4階の高さから、身を乗り出して道を見る。下の方を見回すと、幾人かの靴が鳴り、人の営みが見え少しだけ胸が安堵する。
ただそれ以降は、人はもう歩くことはなかった。
疲労と行き場のないストレスが、タバコの燃えた灰のようにうなだれている。
ため息とともに部屋に戻ろうとしたら、背後から光が漏れた。
僕らのいる小さなビルの前には、そびえるようなマンションが建っている。誰もが羨む、都内一等地の高層マンション。僕らの暮らしとは正反対の、何かに成功した人だけが住めるという、まるで都市伝説のひとつにもありそうな、雲の上のような牙城に目を向ける。
どの部屋もカーテンが閉まっていて、小さく光が漏れるだけだった。だからこそ、ベランダにいる僕らも暗闇の住人なのだが、ある部屋のカーテンが開いたのだ。
なんとなしに二人でそちらに目をやると、全裸の女性が窓に張り付くように全身を曝け出していた。
「おい」
「おい」
なんてことだろう。
部屋に戻りかけた僕らは、ブラインドをしっかりと閉め直してベランダに忍びのように身をかがめて小さくなった。心なしか声も小さくなっていた。
「あれなに?」
「知らんよ」
よくよく見ると、その女性はカーテンを取り外している。年の頃は30代くらいだろう。遺憾なく曝け出したその体を僕らは数十メートルの距離で静かに見入っていた。思春期を過ぎて久しい僕らにとって、この状態が端的に性的興奮というよりも、状況判断に頭はフル回転せざるを得なかった。
そして、やはり目が離せない。
「なんであんなにも自然に素っ裸なんだろね」
「なんでだろね。無防備ってこういうことなんだろね」
タバコの煙と外気が僕らの前で交差する。あたりは、本当に静かで普通に夜が包み込む。
「これだけここにいてもバレないんだから、あっちからしたらこっちは完全な闇なんだろね」
同僚は静かに言った。チリチリとたばこの燃える音がその言葉に添えられる。
「そう思うと、闇側の俺らなんて、ひとくくりに闇なんだな」
暗闇に紛れた僕らを前に、全裸の女性はカーテンレールにひたすら金具をはめていた。その無防備な胸は、動くたびに揺れている。局部に見える黒い茂みも目視できた。もちろん距離があるわけで、ディティールはわからない。
たぶんこれが中学生くらいの男子であれば、これ以上ない興奮と高揚から極限な幸せが生まれるだろう。状況を鑑みても申し分ない。しかし、大人となった僕らにとっては、その「可能性」がどこか懐疑的で、目の前にある非日常的な光景を前に、思春期のなごりのような男の性が、「見る」という行為を発動させているのかもしれない。
僕らは、ただ黙ってその女性の動きを見続けた。しかし、これといった興奮もなく、ただハダカで作業をするその人の生活があるだけだった。
夜道に音さえない、猫が塀の上を駆けていても気づかないくらい静かだ。街灯の明滅くらいしか情報は開示してくれない。あの女の人にとって、窓の外にあるのは街の自然でしかない。恋は盲目(いや違う)。
もうかれこれ20分くらい、ストリップ劇場よりも淡々と、そして黙々と、窓越しに映るハダカの女性を見続けた。カーテンレールに縫い付けられるように、僕らの目も縫い付けられるようだった。
しかし、そんな時間も長くは続かない、続くわけがなかった。
概ね、取り付けられたカーテンから離れた全裸の女性は、手を腰にやり満足そうな表情で息を吐く。
すると、奥からTシャツを姿の大きな男がやってきて、彼女の腰に手を回してキスをした。女性は慌てた様子で、窓の方へ行き、ザーッとカーテンを閉め、静寂に加えて本当の闇が僕らを包んだ。
「おい、そこでカーテン締めるのかよ」
あっという間の終幕に、ため息の混じった笑いが込み上がった。僕らは事務所のブラインドを開け、もう1本タバコに火をつけた。なんかいろいろ期待はしてみたものの、なんかこう、ステキな可能性は結局のところなかったし、あるわけがないことを僕らは知っていた。
「ふう、なんだかんだ、楽しかったな」
同僚は、空を見上げながらタバコの煙を吐いた。
高くそびえるマンションはどの部屋も暗くなっていく。僕もつられて空を見上げる。同僚の言葉に、少し得したような気分と、天上をめざしながら落ちていくイカロスの羨望に似た感情を新宿の片隅で抱いていた。
「ねえ最近いつヤった?」
同僚が声をかけた。
「うーん。いつだったかな」
「明日、打ち上げでキャバクラ行こう」
僕らは、無言でデスクに向かいカチカチとマウスを動かす。締め切りの朝まであと数時間。
幸せの瞬間は、いつどこに転がっているかなんて誰にもわからない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?