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[ちょっとした物語]I Saw The Light

 窓から空をのぞくと、一筋の飛行機雲が漂っていた。手に持つスマートフォンを開くと、その小さな画面に流れる写真と文字をひととおり目で追う。
 新しいつぶやきは、ちょっと目を外した数十分のうちに、どんどん上積みされていた。手に持ったコーヒーカップをひと飲みすることすら、“時間のムダ”と言われているようだった。
 他人のつぶやきは、どれだけ深く読んだところで、特に感慨は深くならない。
 自分でフォローした責任と意味のないプレッシャーの塊なだけだ。と、改めて考えてみたものの、その濁流から未だ逃れることはできなかった。
 友人だろうと、仕事に関わる人だろうと、なんとなく興味を持った人だろうと、ここに集約されれば、新聞の広告チラシのようなものだ。見たことに満足を覚えるだけの、自己満足。それはつぶやこうが、読もうが、目というフィルターを通すことに意味がある。それだけだとわかっていた。
 朝から、こんなことに囚われていることに辟易としながらも、見ないと落ち着かない自分を励ますように、今一度コーヒーを口にした。
 外は、小学校へ行く子どもたちが集まっている。少しガヤガヤとしつつも、しばらくすると静かになった。彼らがいなくなると、この界隈は、しばらくの間静けさが訪れる。たまにごみ収集車や宅配便のトラックやらがやってくるが、それ以外は、人の声さえ聞こえない空間だ。
 僕は、部屋のパソコンのスイッチを入れた。メールチェックをして、今日の作業に取り掛かった。仕事の間は、気分を乗せるためにブルートゥースのスピーカーをデスクに乗せて、曲をかける。ラジオでもいい。でも、やはりここは、自分の聴きたい曲をかけるのが一番心が落ちついた。
 ララララーラー ララララー……
 小さなスピーカーから漏れ出す歌声に、僕は鼻歌を合わせる。
もう30年。この歌が世に広がってから30年が経っているが、未だに僕に美しさの旋律を与えてくれた。
 しばらくして、コーヒーを片手に、ベランダへタバコを吸いに出た。すると、家の前に倒れた自転車の前で、なにかしている高校生らしい女の子がいた。時刻は9時を回っていた。あたりは、小学生や幼稚園児の登校が終わり、静けさを取り戻した朝の余韻の中だった。
 窓を広げ、少し様子を眺めていた。
 その子は、一生懸命にペダルを手で回しながら、チェーンの回転を真剣に見ている。外れたチェーンをはめ込んだところだろう。手伝うのは、やぶさかではないが、今日日、僕のような人間がむやみに手伝おうものなら、たぶん不審者扱いだろう。そんなことを思いながら、短くなったタバコを灰皿に押しつけると、部屋に戻る。再びデスクへと向かい、コーヒーカップを置こうとしたら、突然、家のインターホンが鳴った。
「すいません」
 女性の声だったが、すぐに誰かは想像できた。
「はい」
「あの、申し訳ないのですが、自転車のチェーンが外れてしまって」
「あ、はい」
「申し訳ないんですが、手伝ってもらえないでしょうか」
 ハッキリとした声は、不安などとは違って明確な意思のようなものが感じられた。
「いま、そっち向かうから、ちょっと待ってて」
 そう言って、下駄箱にある小さな工具箱を持って玄関へ向かった。扉を開けると、さきほどの少女が再び自転車と格闘をしている。
「チェーンがはずれたの?」そう声をかけると、
「はい」とだけ返事が返ってきた。
 かなり年季の入ったクロスバイクで、チェーンホイールからがっつりチェーンが外れていた。無理に引っ張っていただけなので、当然はまらない。
「ちょっといい」と、僕は、彼女を退かせ、工具箱を広げた。軍手をはめて、リアをたゆませて、さっとホイールにはめる。
「わ、すごい」横で小さな声が聞こえた。
「おわったよ」と声をかけて、ペダルを逆回転させる。最後にオイルをさして、彼女の方へ自転車を向けた。
「あ、ありがとうございます」
「チェーンがはずれやすくなってるね。たまに油差した方がいいよ。そんで、たまに掃除も」
「あ、はい。兄のお下がりで、なんにも知らなくて」
「毎日乗るならそれくらいしてあげないと。これから学校?」
「もう1限目は遅刻。だから諦めてゆっくり行くことにしました」
「そりゃいい。じゃあね」
 軍手をはずし、工具箱の蓋をしめ、家のドアを開けようと、僕は立ち上がった。
「あ、おじさん」
「ん?」。実のところおじさんと言われるのに抵抗があった。ただし、もう40だ。
「あ、いや、ありがとうございました」
「いいよ、お礼なんて」
「このおうちっておじさんの家なの?」
「あ、うん」
「私毎日ここの前通ってるんだけど、人がいるの初めて見た」
「確かにね。一軒家だけど、住んでるの自分だけだし。日中は家にこもってるから」
「え? 引きこもり?」
 僕は腰に手を当て、空を見上げて少し体を伸ばした。
「違うよ。家で仕事してるの」
「あ、なんだ、仕事はしてるんだ」
 気がついたら、彼女は僕にタメ口で話すようになっていた。別に悪い気はしなかった。
「そういう仕事の形もあるわけ」
「うん。いいと思う……あっ、飛行機雲!」
 突然の彼女の声に、ふたりで空を見上げた。さっきは全然気にもならなかったものが目に入った。
「ほんとだ」
「飛行機雲っていつまで空に残るんだろうね」
 そんな彼女の疑問に明確には答えられなかった。
「気づいたら消えてるもんだよ」
「いつまでも残ってくれたらいいのに」
 そんな言葉が言えるのかと僕は少し感心した。

 ある朝のことだった。

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