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[ちょっとした物語]スライド

 電車の座席が好き。

 硬くもなく、やわらすぎず、体にフィットする感じが、好きなのだ。
 でも、がらんとした車内はあまり好きではない。立っている人は少ないが、座席はある程度埋まっている方が、安心する。

 ほら、今も目の前に並ぶ人たちが、各々本を読んだり、スマホを眺めたりしている。
 ゆらりゆられ、電車の振動は世界を運ぶ。そして時も運ぶわけだ。なんてことのない日常だけれど、この走るスピードのざわめきと、不思議ななつかしい気持ちが、まるで暑い日差しを遮るパラソルのように、現実を遮断する。

 あ、また人が乗り込んできた。入れ替わる人たち。
 右の人、左の人。
 僕の目はその人というより、その造形を捉える。
 まばたきをすると、あら不思議。並ぶ人の体はそのままなのに、首だけが横の人の顔めがけてスライドする。
 また、まばたきをする。同様に、また首が一斉に横の体にスライドする。それはそれは不思議な光景だ。そして、それは右から左へと動くのだ。しかし、それが当然のごとく、まばたきすらごく自然に。

 ほら、スロットマシンの回転のように、またしても、またしてもすげ替えられていく首と胴体。
 耳につけるイヤホンに伸びる線はどうなるんだろう。
 ひょんな疑問にかられた。だから僕は、耳にイヤホンをしている人を探してみた。
 これがまたいないのだ。なんとも予定調和のある世界。案外矛盾を隠すのは得意なようだ。
 大きな矛盾に綻びを持たせないための用意は周到。そんなことを思っていたら降りる駅に到着してしまった。

 あわてて扉を出ると、そこはいつもの何もなかった世界のような感覚だけがあった。歩く人の首は根を張り、体はその機関として馴染んでいる。

 バカだな。バカだな。
 電車の座席にあるその空間に踊らされた幻想だ。ふふっと頬をゆるませて、僕はその先を急ぐことにした。目でさっと目の前をスライドしてみた。なんてもこともない。ただ髪が乱れただけだった。

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