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[ちょっとしたエッセイ]見上げる天井

「人生40余年」

 久しぶりすぎるくらいに布団の上で天井を見上げている。不遜のあまりに世の中を見限ったわけでもなく、人生をドロップアウトしたわけでもない。ある日ちょっと具合が悪いからと病院にかかったのは7月の終わり。世の中は、まさに病原菌の蔓延に怯えている最中、僕も冒されてしまったわけだ。マスクをして、結構気にして生きてきたはずなのに、人生とはわからない。そんなアンラッキー程度に考えているのは、症状が軽症だったからだろう。テレビなどで見られる重度の感染者とは違い、幸いにもいつもの具合の悪さの延長線上のような状態に、たまには強制的に休むのも悪くないと、ある種の諦めを持って家に帰った。
 するとスマートフォンがピコン、ピコンとよく鳴り出す。イメージしていた保健所やら行政からの連絡はすべて電話ではなくショートメッセージばかりで、どれも会話がなく進んでいく。健康観察もウェブでの打ち込みで完了。なんと便利なものだと感心しながら、10日間隔離生活がはじまった。最初はぼーっとする頭でネットテレビでドラマや映画を見たりしていたのだが、首は痛くなる、寝てばかりいると腰が痛くなる。普段から腰痛に悩まされているのでストレッチをしているのだが、ただずっと寝ているのは、よくないらしい。ただこの小さな部屋で立ち上がって歩くわけにもいかず、いつもよりストレッチを多めにしながら、やり過ごしている。
 
 こうやって目的もなく(いや療養なんだけど)、ゴロゴロしていると、ふと無になる時間が時折やってくる。布団に仰向けになると、目に入る天井。わが家は木が露出している天井なので、木目がよく見える。ぼーっとしながら見ていると、たまに犬のような顔に見えたり、なんだか節が目に見えたり、どちらかというと楽しくはない。こわい。でもスマートフォンやパソコンを見ることに慣れた目は、なんとなくその奇妙な模様に向いてしまう。
 
 ずっと見ていると、こんな出来事が前にもあったことを思い出した。あれは20代の前半だったと思う。当時働いていた会社が倒産になり、次に働く当てもなく、毎日ハローワークに通う日々を送っていた。朝起きて、やることもないので、ただただ布団の上でゴロゴロしていた。あまりにやることがないからと、天井をずっと見ていた。クロスの木目調を迷路に見立てて、目で追って過ごした。でもこの時は、自分に酔っていたのかもしれない。こうやって天井を見つめて、自分の哀れさが世界で一番かわいそうな存在であるのだと言い聞かせながら、世の中を責めていただけのような気がする。
 
 今こうやって天井を見つめていると、あの20年くらい前の気持ちが思い出されて、そんなやつ本当にダメなやつなんだけど、なんだか少し愛おしく思えてくる。無駄に悲しんで、無駄に絶望して、当時はそれだけで真剣だった。でも結局はどこかでそれも諦めて歩き出すしかないのだ。あの後、自分は何をしたんだっけなと振り返ると、なぜか東南アジアに放浪の旅に出るのだ。本当に衝動的に。

何かをするのには理由がある。とは言ったものだが、僕の行動には理由はさほど大事じゃない。理由を求めると、失敗した時に言い訳にしてしまうから。と言うほど偉くもないのだけど、そんな大義を感じたことはなくて、消去法に近いことが多い。嫌だなと思う方には行かないようにするくらいがちょうどいい。今みたいに、強制的に休まされる方が僕の性に合っているんだと思う。
 
 天井を見上げると、あらゆる選択肢はなくなり、今の自分にすっと向き合える。だいたい不安な案件が多いのだが、その不安をテーブルの上に置いて、じっと見つめるようにながめる。ここで大事なのはながめるだけ(浸るのはよし)。その姿形を評価して、ああ今こんなやつを抱えているのかと客観的に感じる。そしてため息をつく。こんな作業だ。なんの得もないし、不安を煽るだけなのだが、その存在を具体化して認めることで、背負うリュックにきれいに収めることができるのかもしれない。正直いやなんだけど。
 慌ただしくなった40代で、久しぶりにこんなじっくり天井を見つめる時間ができるとは思わなかった。サンキューとは言わないが、20代によく見た天井の理由が少しだけわかった気がして、よかったなとは思う。
 そして、あの頃の僕に、今もさして変わらないよ、と声をかけてあげよう。彼はため息をつくだろうけど、人生そう変わるものじゃないし、君らしいじゃないかと笑ってあげることが、今の自分への慰めにもなるかもしれない。
 みなさま、この時世ですから、ご自愛くださいませ。

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