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「“異聞”としてのブラジリアン柔術」を『エクリヲ vol.15』に寄稿しました

 5月19日発売の『エクリヲ vol.15』におよそ2万字の論考『“異聞”としてのブラジリアン柔術』を寄稿しました。通販や全国の独立系書店さんなどで発売中です。

 雑誌のテーマは「モダン・ラテン・アメリカ」。文学・映画・アニメーション・思想など南米についてのイメージを刷新するような特集になっています。

『エクリヲ』は2014年から始まっている批評同人誌で、僕も長らく編集に携わってきたのですが、今回の号は論考と短い映画レビューを2本寄稿する形でかかわりました。

 このnoteでは昨年からブラジリアン柔術や総合格闘技(MMA)の歴史について、未邦訳文献をあつかいながらブログを書いてきました。ただ、僕は元々は『キネマ旬報』などで細々と映画についての文章(レビューや批評)を書いていた人間なので、“批評誌”である「エクリヲ」にブラジリアン柔術についての原稿を寄せるのはとても不思議な感覚です。

 特集では日本とラテンアメリカとの距離がテーマになっていますが、明治期に日本から遠く離れた地で伝えられた柔術(柔道)がいかに独自発展して、今日の「ブラジリアン柔術」や「総合格闘技」へと変貌したのかをあつかった論考になっています。

 歴史としても、グレイシー一族に関心のある人たちにも面白く読んでもらえると思いますし、「柔術がなぜ総合格闘技(MMA)で必須の技術体系になったか」についても論じているので、ぜひ読んでみてください。

 一部、原稿から内容が伝わりやすい箇所を引用。

《「日本が太平洋戦争に勝利した」とする戦勝派の存在に驚きつつ、木村ら柔道使節団はブラジル各地で興行を行い、柔道の指導にあたった。「道場での指導や段審査で得る収入は莫大なものとなった」が、遠征中、複数の現地メディアからある男との対戦が取り沙汰されることになる。男は「ブラジル柔術王者」を自称するエリオ・グレイシーで、木村との一戦は「世界柔術王者」を決める試合になるだろうと報道するメディアもあった。》

《一九五一年、柔道使節団とエリオ・グレイシーの〝柔術〟との邂逅は、かくしてこの三戦で終わった。木村は後年の自伝で、エリオのことを「柔道六段」と書き、自らの取り組む講道館柔道と同じ競技としてグレイシーの格闘技を認識しているが、彼らの名乗った〝柔術〟は柔道とは似て非なる技術体系だった。それは明治の開国以降、嘉納治五郎が講道館〝柔道〟を興し、教育・軍事機関へと浸透しながら急速に制度化していくのに並行するように、日本人柔道/柔術家が遠く異国の地に伝えた技術が独自に進化・変形した〝もう一つ〟の制度だった。》

《制度はその起源が忘却されたとき、最も揺るぎのない規範になる。戦後、GHQによる大日本武徳会(講道館以外の諸派も共存していた)の解散もあり、「柔術的なもの」が講道館柔道という一つの制度のもとへと収斂していった。このため、現代の私たちにとって「柔術的なもの」としてただちに想起されるのは、創立当時は一流派に過ぎなかった講道館柔道となっている(一つの例外、グレイシー柔術を除いては)。》

《これまで述べてきたようなグレイシー柔術形成の経緯は、講道館柔道が辿った近代化とは大きく異なる。むしろ、グレイシー柔術側は柔道ではない側面を強調することで技術体系の保存を図り、それは講道館が捨象していった起源にある柔術の複数性を示すものでもある。競技人口が多く、立ち技において俊敏な身体運用を必要とする講道館柔道はいわば、〝強くて速い〟スポーツになっていたのに対し、グレイシー柔術はあえて言えば、その〝弱さ〟こそを武器にした。逆説のように響くが、その〝弱さ〟こそが技術体系としての強さ、言い換えれば頑丈性を生み出すことになったように思える。》

《世界的に普及し、ブラジル国内でもブラジリアン柔術よりも競技人口が多く、オーソリティを持っていた柔道では「負け」と見なされる戦い方をグレイシーは採ることになった。投げ技に優れた柔道家、あるいは自分よりも大きな体躯を持つレスラーと試合をする際、体格や技術に劣る柔術家は“倒された後”に攻めることになる。ある研究ではグレイシー以前に、柔道の普及で世界へと渡り、異種格闘戦を行った日本人柔道/柔術家たちもまた、グラウンドの状態で下から攻めていることを取り上げ、体格の劣るものが"何でもあり"に近い状態で闘うときの、一つのセオリーとされている。このような戦法でとられる、現代のMMAでいう「ガードポジション」とは、柔道では一九一六年に早々に禁止技となった「胴絞め」そのものである、グレイシー柔術はその点で古流柔術の一つの潜在性を別様に発現した技術体系と言えるだろう。彼らはあえて背中をつけて闘っているのだ。》

《柔道はその誕生からおよそ七十年ほどで他の柔術とは違い、国際的な覇権を築き上げた。世界中でルール運用は統一され、寝技の展開を捨象した投げ技主体の「閉じた体系」として一つの完成を見た。それに対して、柔術はつねに開かれた複数性とともにあった。だか、その開放性は決して手放しに称揚できるものでなく、つねに不確実性と接し続けていたがゆえに採られた戦略でもあった。

 ルールは統一されず、前田光世の教え子たちはそれぞれのアカデミーで柔道/柔術を教えた。アカデミー間でもどちらの技術が優れているかという対立があり、それは他の格闘技術に対してはより苛烈なものとなった。柔術着の着用の是非、ポイント制の採用をめぐって、あるいは打撃の有無や試合時間がつねに他流試合を行う上での変動点となった。

 近代化を遂げた柔道は格闘技で最も多くの競技者を擁するスポーツの一つとなり、そのルール内で先鋭化した技術水準の向上を見た。一方、柔術は柔道の「閉じた体系」では許されない、背中を床につけて攻める技術が(意識的か、無意識的かはさておき)発達することになり、柔道では勝ちと見なされる抑え込みも、むしろ減点の対象となった。基盤のある競技団体を築き上げることができなかったグレイシー柔術はキャッチレスリング≒プロレスとの接触が絶えずあり、ときにその市場原理に組み込まれもした。そして、ルタ・リーブレと呼ばれるブラジル国内におけるキャッチレスリングとの他流試合も数多く行われ、一九九〇年代には現代MMAと地続きの世界である打撃も許されたヴァーリトゥードの試合を行っていった。柔術はつねに柔軟であったのである。

 反脆弱なものや状況にとっては、「変動性」「ランダム性」「誤り」「不確実性」「ストレス」「時間」はいずれも利益になる。柔術はマイナーであることで急速な制度化がなされないまま時間が経ち、複数のアクターによる内紛によって曖昧な技術であった歴史が長い。》


 前回のブログの続きも書く予定なのでよろしくお願いします。