高橋健也がフットサルと出会ってから 【我が道を行く】
「プロになるために大学に行く。」
新潟から神奈川へ出発した僕は大学をそう捉えていた。
でも、それは違っていた。
大学というのは
もっと自由で
時に怠惰で
時に厳しくて
もっと多くの意味のあるものだった。
「人生の夏休み」とはよく言ったものだ。
正直、大学に入る前に思い描いていたキャンパスライフとは全く違う生活だった。
たくさんサボったし、たくさん妥協したし、たくさん新しい経験をした。
たくさんの選択肢があり、自分の感性で選び、何かを捨てていかなければならなかった。
みんなが自分の知らず知らずのうちに社会に出る準備をし、
自分の人生の行く先を選んでいる。
第1章はこちら。
・人生の分岐点 大学生時代
┗入学後1か月で突きつけられた現実
大学に入学して早々、僕には大きなイベントがあった。
サッカー部入部セレクションだ。
大学をサッカー部で選んだ僕だったが無名高出身のためサッカー部に入るにはもう一つ壁を越えなくてはならなかった。
結果は、不合格。
実力不足もあるが、受験勉強で急速に失われた視力のせいで逆サイドで何が起こっているかわからなかったからもあるかもしれない。
その後、コンタクトを買い、世界が変わった。(視覚的に)
結果を受けて全てを否定された感覚だった。
サッカー部に入るために大学に来たのに入れない。
その現実を入学後1か月で突きつけられた。
しかし、薄々自覚はあった。
関東や全国の有名校出身の人も多く、自分の実力不足は顕著だった。
しかも、推薦組でユース出身者はもう入部が決まっていたり、後で聞いた話によると監督の知り合いだとか何とかでセレクションには来てるけどもう決まっている奴もいた。
現実を知った。
新潟出身で、無名校出身というだけでほぼ確率はゼロに等しい。
実力以外の要因もある。これが今の社会の摂理だ。
悔しかった。
このヘラヘラやって合格するやつより何倍も真摯にサッカーの向き合って練習してきた自信はある。
しかし、絶対にこいつらがいた環境には勝てない。
実力も伴ってこない。
地方に生まれた時点で、無名校に行った時点で、
自分のサッカー人生の上限は決まっていたのか。
そう感じてしまった。
一つのずっと信じてきたものが崩れた。
挫折だった。
僕と同じく不合格だった仲間はサークルでやることにしたり、社会人のサッカーでやると言っていたが自分は何かしっくり来なかった。
そこでふと思い立ったのがフットサルだった。
新潟では雪が降るので毎年冬にはフットサルをやっていた。
サッカー部を引退した後もどこかで身体が動かしたくて社会人フットサルにも顔を出していた。
そこでやっている人に
「健也はフットサルに向いているよ。」
と言われていたがサッカーでプロになると信じて疑っていなかった僕は耳を貸していなかった。
「もしあっちでフットサルしたかったら知り合いを紹介するよ。」
と言われていたのを思い出し、事情を話して頭を下げた。
なんとなくフットサルに挑戦したいと感覚で思い付き転向を決意したのが全ての始まりだった。
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┗奇跡的な出会いとフットサル界
僕は、新潟の知り合いの紹介で墨田区の体育館の個人フットサルに行くことになった。
住んでいる横浜から一時間以上かかったが、新潟から出て来て1ヶ月のまだ初々しい少年にはそれしか頼り処がなかった。
そこでこの先の自分の人生を左右する奇跡的な出会いをすることになるとは知る由もなく、
初めての乗る都会の電車の中でキョロキョロしていた。
やっと体育館に着き、知り合いと合流した。
「とにかくここに来たみんなで試合をするんだ。」
と説明を受け、いまいち仕組みも分からずとにかく試合をやった。
そして、終わった後に知り合いの人と話していたら1人の人が僕に話し掛けてきた。
「横浜に住んでるの?」
この人との出会いが僕のフットサル人生の始まりだ。
その人はたまたまその日横浜からその個サルに営業で来ていた。
そして、僕が横浜に住んでいてフットサルを始めたい大学生だと聞いて声を掛けてくれた。
「明日練習あるけど来る?」
断る理由がなかった。
次の日、横浜なのに田んぼはあるし自然も多いどこか自分の地元のような雰囲気の町の丘の上にある「エスタジオ横浜」というフットサル場へ向かった。
ここは後に僕の大学生活のほとんどを過ごすことになる場所だ。
そして、僕は「フェニックス横浜」というチームに入ることになった。
その当時、フェニックス横浜は神奈川県1部にいた。
アマチュアチームではあるが、スポンサーをいくつか持っていて、エスタジオ横浜がスポンサーがホームグラウンドとして自由に使えて、Luzesombra(ルースイソンブラ)というフットボールブランドがウェアを提供していた。
僕はびっくりした。
スポンサーとかプロのものだと思っていたし、
アマチュアでもつくのかと思った。
「関東は凄い、、。」
さらに、その当時のメンバーも元フットサル日本代表の監督だったり、昔Fリーグでプレーしていたベテランの人もいた。
田舎から出てきた芋大学生にはだいぶ場違いのような環境に何も分からず飛び込んだ。
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┗ 試行錯誤のフットサル
チームに加入が決まり練習に参加したが、戸惑いばかりだった。
わからない名前の戦術、目まぐるしい展開、本当についていくのがやっとのスピード感だった。
「これがフットサルか。」
その当時のチームには、昔Fリーグなどでプレーしていたベテランも多くいて素晴らしい環境だった。
しかし、1年目の自分は何も分からずとにかくがむしゃらにプレーしていた。
その時期に、エスタジオのスタッフに声をかけてもらい、フットサルスクールのアシスタントコーチも始めた。
バイトをしながらフットサルも学べて一石二鳥だった。
子供に教えるというよりも自分が勉強していた。
そして、気づけば練習かスクールで毎日フットサルをする大学生活になっていった。
1年目はほとんど試合に出れず、2年目はサテライトでプレー。
トップに上がり迎えた3年目、フットサルの理解も少し深まり気合いを入れてシーズンがスタートした。
その頃にはスクールでもメインコーチを務めるようになり試合にも絡むようになっていた。が、
しかし、結果はリーグ中位。
個人的にも思うようなプレーができずどこか煮え切らない気持ちを持っていた。
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┗ 広がった世界
4年になる春休み、知り合いのつてでスペインに短期留学をすることになった。
3週間、現地のチームに参加し、観光や個人トレーニングなどもできるプログラムだった。
僕はフットサルを始めた頃からスペインリーグの試合をYouTubeで見て勉強していたのでとても楽しみだった。
初海外が英語の国ではなく、スペイン。
しかも1人で。
自分にとってものすごいチャレンジだった。
バルセロナの空港に初めて降り立った時、訳のわからない言葉の表示ばかりだった。
「Salida」という表示の横の出口のような絵を見てその方向に向かった。
3週間後、僕は今後の人生を左右するほどの大きな衝撃を受けて日本に帰って来た。
スペインのフットボール文化、町の雰囲気、フットサル選手たちの質の高さ、欧米の文化の違い。
そこで出会う全てのものが新鮮で
自分の中の常識が通用しなくて
全く別世界だった。
この滞在で僕の価値観は大きく変わった。
海外かぶれ。と言われるかもしれないが自分の中ではそれくらい衝撃で、自分の目で見て、肌で感じたからこそのものだった。
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┗ 大学最後の年、進路
スペインに行き、何か変化を得た僕は、頭の中で「フットサル」というものが少し整理されて、プレーが変わった。気がする。
試合にもコンスタントに出れるようになり、その年チーム初のリーグ優勝にも貢献できた。
そして、大学4年で最も大きなイベント。
進路問題だ。
周りが就活を始める中、僕は自分の進路に疑問を抱いた。
「自分は人生で何がやりたいんだ?」
このまま、就職して今のチームでフットサルをしながら暮らす。
というのが「普通に」思い描ける未来だった。
でも、僕には心に引っ掛かるものがあった。
それがスペインだった。
「あのレベルでチャレンジしたい」
「右も左もわからない場所で新しい経験を得たい」
「自分の人生もっと自分の可能性を信じてチャレンジできるんじゃないか。」
「海外で生活することで1人の人間としてももっと成長できるんじゃないか。」
考えれば考えるほど、その気持ちが強くなり僕はスペインに行くことに決めた。
迷いはなかった。
僕は親に頭を下げ、説得した。
昔から僕が頑固なのを知っている親は最終的には折れてくれた。
自由にやらせてくれる僕の親には本当に感謝している。
スペインでの生活費もろもろを大学4年の1年で身を削りながらバイトをして貯め、そして大学を卒業した。
┗ 再出発
6月、スペインに出発する日を迎えた。
大学の4年で自分の人生は大きく変わった。
サッカーでプロになると思っていた。
けど、挫折し、フットサルに出会い。
毎日ひたすら向き合い、上手くいかない時のほうが多かった。
でも、その成果はゆっくりでも必ず出て来て、
フットサルのおかげで初めてスペインにも渡った。
フットサル、大学、スペイン、全ての出会いがあるから今の自分がある。
4年でこんなにも人生が変わるのか。
でも、実際に多くのことが劇的に変わった。
卒業してからの人生。
今までよりもっとたくさんの選択肢があるだろう。
自分らしい後悔のない選択をしようと思った。
たった4年でもこんなにも人生は変わる。
そんな思いを持って僕はバルセロナの空港に降り立った。
僕は「Salida(出口)」という表示を読み、期待と希望に満ちたその足で、その方向へと向かった。
スペイン編へ続く、、、
スペイン編↓↓
フットサルを始める前の話(バックグラウンド)↓↓
Footballを通じて人間として成熟する。 これが僕の信条です。 僕は挑戦を続けます。 皆さんと胸を張って向き合えるような立ち振舞いをしていきます。 僕のその姿が、誰かの力になるように。