改めて自分のことを紹介します

 自分の思いだけではなく、自分の生立ちを含めて紹介いたします。
1983年1月 北海道札幌市にて生まれます。幼少期は札幌市真駒内→江別市大麻→札幌市真駒内で育ち、大学入学を機に齢18歳で東京へ状況し一人暮らし、大学・大学院の6年間を過ごしました。現在は会社員をしながら、複業でコーチングをおこなっております。家族は妻一人と小学生の娘1人です。

 小学校は真駒内にある真駒内小学校へ通いました。地域の中ではちょっとだけ古い学校でしたが、それでも創立30年満たない若い学校でした。小学校低学年の記憶としては、縄跳びだけと右手首の骨折。中学年では学外のスポーツをはじめ平日夕方や土日が少年団の練習や試合などにかけられるようになりました。学校ではドッチボールや天下などを休み時間に没頭していました。朝朝礼前に天下をやっていて、野球用のバックネットに頭をぶつけて2針縫うけがをしたのも懐かしく感じます。

小学生から少年団へ
 小学校時代には3年生で少年野球に入団しました。地域でもそれほど強くはなかったでしたが、同級生が1人しかいなく、自分が一番下だったので、可愛がってもらいつつ、上手くならなかったので、1年で退団。
 その後、4年生のGW明けから親戚のおじさんが監督をしているミニバス少年団へ入団し増田。自分が住んでいる南区には1チームしかないことや、せっかくやるなら強い(はず)のところでということで、白石区の本郷ミニバスへ入団しました。6年生にも優しくしてもらい、楽しく取り組むことができました。負けず嫌いもあり、追いつけ追い越せと毎日バスケットボールを触りキャプテン翼さながら、ボールは友達と言っていました。尊敬する選手はマジックジョンソンとピートマラビッチでした。周りを生かすパス捌きに憧れ、自分のバスケット人生をそこにかけるようになりました。当時マイケルジョーダンが大活躍していましたが、ジョーダンのようになりたいとは思っていませんでした。
 あまり強くなかったチームとということもあり、際立った成績はあげられませんでしたが、5年生の2月に参加した新人戦ではキャプテンを拝命しました。選んでくれた先生にも、周りの仲間にも感謝です。ある意味よそ者でしたが、関係なく選んでいただきました。また、新人戦の結果から、ブロックの選抜15人の一人にも選んでいただき、3月の選抜大会で野幌総合運動公園で試合させてもらいまいた。単独チームではなかなかできる会場ではなかったので緊張しました。いいところに動いてくれる仲間やボールを要求してくる姿勢に応えてパスを出す快感を味わう試合ができたのはいい経験になりました。

 中学入学しても勉強そこそこに、バスケ部に入部し、朝練から夕練まで練習しましたね。昔ながらの顧問で、練習中は水飲んではいけないとか、言葉遣い、練習中の私語など厳しかったです。1年の夏休みの練習で、引退したばかりの先輩と練習中お喋りしたら強制的に帰らされたり、練習前に転がっているボールを足で止めたところを見られて、校庭50周走らされたり。おかげで体力も付きましたし、メンタルも鍛えられました。バスケットでは2足の草鞋を吐くようになりました。平日〜19時までは中学の部活の練習。19時〜には親が教えている真駒内のミニバスの練習への参加でした。小学生相手にも手を抜かずガチでやりました。手を抜くと失礼だと考えていました。
 中学時代には大きく二つの挫折を味わいました。
一つ目は中2の秋。中学の北海道選抜の合宿に夏から参加しており、その最終選考で残念ながら落選。全国大会出場という夢は儚くも消えてしまいました。 (その後、中3春の大会で、なもなき真駒内中学校が北海道選抜1名、札幌選抜3名を有するチームに勝ち、スカッとした思い出ベスト4になることができました。準決勝で青葉にボロ負けしましたが。)
もう一つは高校受験。周りにも止められましたが、第一志望を受けないと自分自身が納得しないと思い、札幌南を受験。撃沈〜〜〜〜 合格発表で番号がないあの感覚、初めての体験で、中学生ながら辛かったですね。 結果札幌光星で楽しい高校生活を送ることができました。

高校生活
 何を隠そう札幌光星高校は男子校。東京の暁星高校と姉妹校ではあるものの一緒なのは制服だけ。学力は雲泥の差でした。高校では部活は早々に辞め毎日のように塾通いに明け暮れました。数学ばかりでしたが、数学はいろいろな問題やりました。自分よりレベルの高い問題をみて全然解けないことに面白さを感じたりしてました。成長しないんですけど、上があることを感じてるようでした。
 大学受験でも高校受験の二の舞を踏むのではという選択をしました。人って変わらないですね。辞めてもっと合格率の高いところにしたら?と周りから説得されましたが、頑固な性格ゆえ、人に言われて帰ることができず、そのまま受験。今回はなんとか合格することができましたが、ダメだったら防衛大学校への進学を決めていました。
 高校の同級生や塾の仲間も北海道から外に出た人は少なく、当時のPHSの番号も変わり、なかなか疎遠になってしまいました。みんな元気かな。

転機は突然に
自分の中での転機が訪れたのは、大学4年の研究室配属でした。所属した研究室メンバーのうち、半分が外国籍。韓国出身の助手に中国出身の先輩、そしてマレーシア出身の同期とオーストラリアからの留学生と今までに経験したことのない、自分にとってはカオスな空間でした。これだけ当たり前に英語が飛び交う世界に困惑しつつ、習うよりも慣れろで、皆さんのコミュニティーへもダイブ。大学の留学生課の教授と知り合い、留学生向けプログラムにアテンドしたり刺激的な生活を送っていました。
 そうこうしているとバスケへの熱は一旦冷め、広い世界で何かしてみたいという気持ちが湧いてきました。留学生は異国である日本で日本語もわからず研究・生活をしなければならない。専門性があるとはいえ、難しさや躊躇するポイントもたくさんあると思うにの、日本へ来る行動力が素晴らしいと思っていました。そんな留学生を見ていると自分も留学してみたいという思いに駆られ、留学生課の教授に相談。その流れで繋がったのが今所属する東洋エンジニアリングでした。当時はインドの子会社で設計業務が走っており、留学ではなくインターンとして短期間海外の生活を体験してみるということを調整してくださいました。結果春休み期間の7週間を利用し、ムンバイへ。初海外がインドムンバイ。今よりもまだインドが成長する前だったこともあり、インド国内はカオスでした。少なくとも僕にはそう見えました。強烈な体験でしたね。そしてインド人を下に見ている自分がいることにも気がつきました。ある日ムンバイにはるIIT(世界でもトップレベルの工業系大学)のイベントがあるとのことで遊びに行ってみると、アカデミックなことだけでなく、インドの学生はプラクティカルな知識もしっかりと身につけており、学生期間の勉強の差を見せつけられました。国籍でどちらかが上とか下とかラベル付するのをやめようと最初に思った瞬間でした。

未知の世界
その後は縁があった東洋エンジニアリング株式会社に就職。新人研修が終わり最初に配属されたのはブラジルプロジェクト。札幌から東京・千葉へと南下してきましたが、ついに南半球へ。自分にとってはまさに未知の世界。先輩には英語でなんとかなると言われ行ってみたものの、現場では英語ほとんど通じません・・・。汗 初めての年末年始休暇に調子に乗ってブラジル北部の街へ観光へ出かけたら、気が付かずにファベーラを歩いて抜けてしまっていたようで、地元の少年たちに囲まれ、デジカメを差し上げざるを得ないという状況を経験しました。まさに初めての経験です。
いろいろ経験もしましたが、中学校1年生以来新しい言語を勉強する脳を使ったのは大変でした。現場で覚えるからスラングばかりですが、なんとか会話するに足るだけのレベルにはなりました。ブラジル4年目には、ポルトガル語で議事録を書いたり、会議に参加したりすることができるレベルにはなりましたが、女の子を食事に誘うのはハードルが高かったです。言葉の問題ではないことを痛感しました。

新しい分野への挑戦
18歳で上京してからの15年くらいは自分が新しい環境に適応し、一人前の大人としてみられるためにもがき、成長しようと必死だった期間だと思います。長いか短いかは意見が分かれますが、自分にとっては必要な経験だったと思っています。そして入社後10年目に自分が本当にやりたいことは何かを考える中で、「場」づくりや「仕組み」づくりだということに気が付き、人事部へ異動することになりました。自分の希望的わがままを聞いてもらった感じです。人事も人がいなかったみたいです。そして運命的な人財開発に関わり始めました。
 人財開発の勉強はもちろんですが、それだけではなく、海外での経験を踏まれると組織開発を活用する必要があると思い、ODNJというコミュニティーの基礎講座を受けたり、中村先生や中原先生に着目するようになりました。そこから派生してリーダーシップなども学びサーバントリーダーシップやオーセンティックリーダーシップにも出会いました。
 さらに自分自身のレベルアップの必要性も感じ、キャリアカウンセリング資格であるGCDFを取得したり、NLPという心理学を活用したコミュニケーション手法を学ぶに至りました。

次のステップはコーチング
 そして2020年のコロナ禍と同時に始動したのが、プロフェッショナルコーチ養成機関のCTIジャパンが提供するコーチング講座への参加。自分はコーチとして触媒のようにクライアントさんが変化・成長していくことに立ち会いたいと思ったんです。そして一気に基礎コース・応用コース・上級コースの学びを駆け抜け、並行して100時間の有料コーチングを実施。忍耐強いクライアントの皆さんのご協力まり、2021年11月に無事CPCCというCTIの認定資格を取得するに至りました。
 まだまだ学びの旅は続きますし、自分らしいコーチングスタイルの探求は終わらない気がしますが、これまでの経験を活かしつつ、新しいことをたくさん経験していこうと思います。


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