生体感異色 大きな気づき
笑あり、涙あり、そして大人になり、また涙あり、感謝あり。
言葉って難しいけど、25歳で会社を起こし、いくつかの会社の先頭に立って走ってきた。
よく経営者の皆さんが突っ走ってきて今があるっていうけど、多分違うと思う。
凄まじい障害物走で、躓きそうになっても耐えて、力尽きそうになっても前を向いて、越えられそうもないハードルを無理やり超えて、そして走り続けて今があるんだと思う。
真っ直ぐ舗装された道を突っ走るなんて、ありえないでしょ!
走り続けてる人達は、全てを乗り越えて今があるんだ。だから、笑って過去を振り返れるし、目を輝かせて未来を語れるんだと思う。
俺もそうだと思ってたし、それを全く疑わなかった。
2019年の秋、妻に一言言われた。
「目の色おかしくない?っていうか黄色くない??」
「何言ってるの、光の加減でしょ!」
俺が出来た最大限の言い訳。
分かってた、自分でおかしいの。
でも信じたかった、俺は健康だって、病気なわけがないって。
その後、試合の遠征先でスタッフにも言われた。
流石に認めるしかない。
同級生のかかりつけ医の所に、別の件で受診してみた。
診察後、恐る恐る、
「俺の目って黄色い?、黄疸??」
「うーん、黄色いって言えば黄色いかな、光の加減もあるから、とにかく採血しよう!」
そう言われて、笑いながら、採血は全力で断った。
だって、健康診断受けてないし、お酒いっぱい飲んでるから、肝臓悪いって言われるのは分かってたから。怖くて。
でも、とりあえずすぐ終わるからって押し切られて、数年ぶりの採血をした。
「明日には結果出るから、すぐ連絡するよ!」
「取り敢えず、なんとか大丈夫って感じにして。」
同級生の医者に、意味のわからない注文をして、病院から出て、仕事に戻った。
次の日、血液検査の結果の写メと、すぐに病院に来てって言うメールが届いた。
「ハッキリ言って良くないよ。すぐに大きい病院で専門医に見てもらって!どこでも知り合い居るし、紹介状書くから!」
そして、大きな病院を紹介してもらって、受診した。
主治医は、高校のまた別の同級生だった。
笑い話にもならないな。
そんな思いで、半分しか話は入らず、一緒に来てくれた妻が残りを含めて全て話を聞いてくれた。
そして、1回目の入院をした。
ただ、肝臓の薬を投与してもらって、1週間で退院。
全く自覚症状はなかった。
まだまだ普通に生活出来るじゃん!
今思うと、またすぐ入院するくせに、しかも死にかけで!!って言えるけど。
入院も退院後も、自分の中では何も変わってなかった。
少し経った頃、めまい、黒い便、血圧の極端な低下などの症状があり、妻、そして子供達に促されて救急で病院駆け込んだ。
その時の俺の体の中では、大量出血してた。
本当に危ない状況だったらしい。
家族がいなきゃ多分今この文章は書けてない。
沈黙の臓器は、周りを使って自分の体の危機を教えてくれた。
食道静脈流破裂。
これが、その時の診断名だ。
その後、胃静脈瘤破裂も経験することになる。
しかも、食道静脈瘤もそうだが、胃静脈瘤は何度も何度も破裂し、これからかなり長い治療を要することになる。
肝臓の数値は最悪。
下血、吐血は日常で、ここから生きるための戦いが始まった。
血液検査の数値なんて全く分からなかったけど、生きる為に必要な項目は先生から学んだ。
その数値が悪くなったらかなり厳しいよと、先生に告げられた。
もう既に悪くなって、数値自体がボーダーラインギリギリ。
むしろそれより悪い時が多かったぐらい。
日々口か、お尻から血が出て、それを内視鏡手術で止めてもらって、後は数値と睨めっこ。
内視鏡手術室のスタッフは、2、3日内視鏡の検査や手術が無ければ、お休みもらったの??って^_^
ほぼ内視鏡室へは皆勤賞だったから、毎日内視鏡しないように、たまにはゆっくり夏休みでも貰えるようにって、優しく接してくれた。
でも結果ほぼ皆勤賞で、前に進めなくて、結局4ヶ月の絶食になった。
途中、絶飲食もあったから、もっと長く感じた。
絶食期間が明けて、飲みたいのを我慢してた自動販売機のカップのコーンポタージュを買った。
忘れもしない、めちゃくちゃ不味かった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?