美術教師

高校は私立の進学校だったがおそらくリベラル・アーツ教育の一環として芸術科目の選択があり、自分は美術を選択した。選択した理由もよく覚えていない。ただ、選択者が殆どいなくて教師と自分のマンツーマンの状況が出来るような寂れ方が気に入っていた。

ある時の課題はこうであった。皮付きの直径5センチ程の丸太からトレイを作る。木は特殊な樹脂に浸して腐らない耐久性のあるものになるとのことだった。造形は作者の自由である。先生は準備室から大事そうに見たこともない大きな鑿(ノミ)を持ってきて、自分にだけ託してくれた。その鑿はとてもよく手入れされていて、木の一削りごとの心地良い感触がそれを物語っていた。楽しくなって随分彫ったところで、当時密かに生意気盛りであった自分は、突然気に入らなくなった。

よくある手造り風の仕上がりにするのが嫌になったのだ。トレイの側面に木の皮を残せば十分に手作りの味は出る。トレイの底面は別の風合いを出したい、電動ヤスリを使って工業製品のような連続的な丸みをつけたくなった。あれこれやってみたい高校生の素人考えであり、さして褒められた発想でもない。何よりもせっかくの鑿により彫られた証とも言える奇麗な平面達をすべて機械により潰してしまうことになる。でも、そう思ったらそのように作るのが美術というものではないかとどこかで信じたい気持ちがあった。ろくに相談せずに電動ヤスリの設置場所に向かった。先生は心配そうについてきて見ていたが、自分はスイッチを入れてトレイの底面の鑿の跡を潰しはじめた。先生は顔色一つ変えようとせず、危ない機械仕事の注意すべき所のみを見てくれていたように思う。鑿を預けてくれたことを無碍にしたことについて、先生は黙っていたから、謝ったら却って失礼だと思った。すべてを曲面にしたあとも、無用になった鑿を回収すると、今までと同じ調子で最後まで丁寧に指導してくれた。

芸術に生きるプロ達を心から尊敬できるようになったきっかけであったと思う。

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