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ノイズとアンテナ

先日、吉祥寺の街を歩いていた。
よく見るとたくさんのお店があるな、と思った。

牛丼屋、ラーメン屋、眼鏡屋、古本屋、靴屋、金・プラチナ買い取ります屋…

今まで別に気にしたこともなかったのだが、こんなにたくさんのお店…その全てが、誰かが、かつて、なんらかのモチベーションに突き動かされて作ったのだと思うとどうにもな気持ちになった。
1店1店に寿命をかけた壮大なストーリーが眠っていることを思うと…なんとも落ち着かない、ガチャガチャしたもののように見えてきたのだ。

この世界に安くてうまい牛丼屋を創立することに真骨を注いだ人がいる。
誰かにとっての生きがいは金やプラチナを買い取ることだった。
多岐にわたるモチベーションの幅。

福永はこの世界にラーメン屋を出店することが自分の人生の最重要課題だと思ったことが1秒もない。
眼鏡屋だったら…ちょっと興味がある。

そんなことに…と言ったらアレだが、福永から見たら「そんなこと」に人生の時間と労力を振り絞りたくなった人がいるのだ。真剣に。

そして他の誰かから見たら、福永が延々4年も5年も「アルハンブラの思い出」を練習することや、何万というお金を賭して大して違いもしない(福永からしたら致命的に違うのだが)マイクを買い揃えては、今より2cm離して置くと音像が良いなどと興奮していることが、全く理解できないのだろうな、と思った。



もののついでに古本屋に入った。
とんでもない数のタイトルが背表紙から福永の目の小さな面積をターゲットに誘惑してくる。
最近は楽天市場でお目当てのものを検索して買ってばかりだったので、目当てでもなんでもない本のタイトルが目の中で踊り狂う様子は新鮮だった。
この圧倒的に無駄であろうと思われる時間が福永にとっては「今自分に必要だった時間」に感じた。
だが、ある人からしたらそれは、とんでもない時間の浪費にしか見えないのだろう。

結局探していた本は見つからず、探してもいないさまざまなタイトルを眺めることに1時間を費やした。
「サルトル」というタイトルの本があって、いや人名そのまま…!と思い、ついつい手にとってみた。
福永が何かの間違いで哲学界で名を馳せたりしたら「福永健人」というタイトルの本が、自分とは関係ない人間の執筆で出版されたりするのだろうか。

開いてみると、文庫本サイズの中身とは思えないほどふんだんにイラストが使用されており、サルトル〜実存主義〜構造主義についてめちゃめちゃわかりやすく説明してやろう、という作者の意気込みが感じられた。

別に欲しいとは思わなかったのだが、変に面食らったまま¥330の「サルトル」を間違ってレジに持って行ってしまった。

古本屋「百年」の店員さんが極めて爽やかにレジ対応をしてくださる間、こんな不純な動機で本のバーコードを読み取って頂いていることになんとなく申し訳ないような気分になった。



「サンロード」と書かれている大きな看板。よく見ると1文字1文字にちょっとずつ異なるトリックを仕掛けてあり、近くで見るとよく工夫されていることがわかる。
福永は正直言ってあんまりセンスの良い看板だとは思わなかった
だが、それはあくまでこの世界に80億いる人間のうちの1人のごく小さな感想であって、1文字1文字に施す工夫に心を注ぎワクワクしながら作った人がきっといるのだ。
締め切りに追われてでっち上げたのだったら…わざわざ1文字1文字に趣向を凝らしたりしないだろう。

福永は、街中にある風雨にさらされて錆切った「そろばん教室」の看板をわざわざiphoneのカメラに収めたりするような人間なので、どちらかといえばサンロードの看板が悪いのではなく、受け取り手である福永の感受の方角が歪んでいるのだろう、と感じた。



八丈島に住む友人とビデオ通話をした。
彼に吉祥寺でふと他人のモチベーションの多様さに眩暈がしたという話をしたところ
「なんか…君は…宇宙人みたいな感想を持つんだね」
と言われた。宇宙人…!?

その話の流れで、ストックとフローについて話した。
福永の説はこんなものである。

ギターを練習することや、より良い曲を作るためにアイデアを吸収すべく音楽を聴くこと、仕事を頂けるように営業することは、なんらか自分の人生の必要なモノが「ストック」されていくような感覚がある。
もちろんお金を稼いで貯金ができる、とかもそうなのだが、それに限らず。
なんとなく自分にとって有益なものが溜まっていくような行い「えらいこと」をしているような気分で行う。

一方でだらだらゲームをしているとき。なんとなく罪悪感がある。
あるいは、ほとんどずっと下ネタを言い合って大爆笑しているような実利のなさそうな飲み会に参加している時も同様である。
これは「フロー」であって、その瞬間、楽しいという実感があるものの、後には残らない。
どことなく「何やってんだ、俺は」と思いながら眠る羽目になる。

周りの友達を見ていると、スノボへ行くことや、ゲームをすることや、旅行へ行くことや、ライブを見ることや、美術展にいくことや、映画を見ることや、ラウンドワンに行くことをあらかじめ計画して、強い熱量でその日を楽しみにしている。
それがどうも、福永は、みんなほど「あそび」が好きじゃないのかも?と思えるほど、強い熱量なのである。

これが福永の思う、ストックとフローの違いである。
そして。
ストックを愛し、フローに虚無を感じる現在の福永の姿勢は、学校教育によって刷り込まれたものなのではないかと思っている。

学校ではドッヂボールをして遊びたい時間を我慢して、勉強に充てることによって良い成績・点数という形で報酬が得られる。あるいは他者(っていうかだいたい親とか先生)からの承認を得ることができる。つまり、自己承認欲求を満たすことができる。

逆に夏休みの宿題をせずに大乱闘スマッシュブラザーズに熱中していた場合、親や先生から怒られる

で、これは犬がお手をすれば餌をもらえるのと同じ形で身につけたものである。

そう思うと無性に悔しい気がしてきたのだ。

本質的には…フローにはフローの輝きがあり、それを享受することもまた人生の喜びの一つである。
そこに罪悪感を覚えてしまうような姿勢は、バランスが悪い。
曲がった背骨を矯正したいような気持ちになってくる。

福永は今、意識的にこの呪いをとっぱらいフローから見える美に身を委ねる時間を増やしたい、増やすべきだ、と思うのだ。
そうしないと、つまんない人間になってしまう。
勤勉で薄っぺらい。そんな人間になりたくない、という念が湧くのだ。

だが、いつも、無意識に…どことなくそういう時間には今でも、いつでも、ちょっとした虚無のムードを伴っている。
古本屋で無数のタイトルを眺めている時。
そういう時間は福永にとっては結構楽しいものである。
だが、心の奥底ではなんとなーく、宿題をせずに大乱闘スマッシュブラザーズをやっているときのような罪悪感がある。
親や先生に怒られるような気がしながら、古本屋で1時間を過ごしたのは、意識的に自分に言い聞かせるためでもあったのだ。
「無償でフローを愛せよ、福永!」



そんな話を八丈島に構えた良さそうな事務所を背景にした友人が、画面の向こうでしきりに頷きながら聞いてくれていた。
背景に自動のモザイクを設定しているせいで、コーヒーを飲もうと椅子を引いた拍子に彼の体がモザイクになったり、また姿を表したりした。

そして彼はいう。
「…ストックとフローってどこかに線引きがあるものなの?」

彼の意味するところはこうである。

「スプラトゥーンに彼女と一緒にハマっているが、そういう時間を無駄だとは思わない。チームでゲームに勝とうと思う時になんとなく得た知見が、社会人バスケットチームや、仕事上の企画運営のインスピレーションにつながることがある。それが回り回ってスプラトゥーンに戻ってくることもある」

だから、ストックとフロー、というワードで福永の中で安易に区切られている2つの概念が、彼の中では無数のシナプスで交錯しあっているように見える、というのだ。

それらはなんとなく性質が違うことは違うのだが、実質的に不可分で、循環している。

__

…そんな彼は八丈島でイベントの企画に今、真骨を賭している。
「なにか、まだここにないものをこじ開けていくのが好き

彼のモチベーションは、八丈島にまだなかった「イベント」を生み出す。



別の友人に言わせると
「そもそも普通に考えて、生まれたことにも生きていることにも全然「意味」はないんだから、ストックもフローもなにも、自分が楽しいとその瞬間思えるかどうか以外に、基準が置けなくないか?」である。

彼は遊びが大好きである。
それは今現在、突然死に至ったとしても後悔をしない状態を目指すことに由来するらしい。

例えば、彼がギターを練習するのは、練習がしたいと思ったからである。
ギターが上手くなりたいのは、うまくなりたいと思っている自分の方が、そう思っていない腑抜けた自分よりも格好良いと思うからである。
親や先生に怒られるから/褒められるから行うのではない。
えらいか、えらくないか、そんな理由で行うのではない。
その行為に身を置いている自分を、自己評価として「格好良い」と思える、そういう方に常に身を置いておきたい。
そうでないことに一瞬でも時間を費やしている、その瞬間に死んだ場合…
それは、後悔につながる。

他者からの評価・評判は、根本的に、コントロール不能のものなため、基本的には考えない、考えても仕方がない。

時系列ももちろん、全く考えないわけではない。
全か無か、という乱暴な話をしているわけではない。
が、今この瞬間を輪切りにした時に、クールだと思えない時間を費やすわけには、基本的にはいかない。

と、こういうことらしい。

これは非常にフロー的である、と福永の区分の中では思った。

__

…そんな彼は息巻いて
「最近、久しぶりに人生の目標ができた」という。

それは、人文分野の知識量をふやす、というものだ。

彼には福永からコテンラジオの「構造主義」の回を勧め、一緒にどハマりして、ラジオ内でおすすめされていた「初めての構造主義(橋爪大三郎)」も一緒に読んだ。
それがすっげー楽しかった、ということらしい。

人文知を深め、物事に対する理解の入射角を増やすことは、彼の中でクールなことなのであった。

福永はストック的に、というか、ストックゾーンから同じことに楽しみを覚えて、同じようなことを今一緒にやっている。

別の角度から入って、今同じことにハマって一緒にやっている。
ちょっと面白いな、と思った。



最近はソロアルバムの制作の一環で、音楽をやたらめったらたくさん聴いている。
そしてそのわりに、全然曲ができなくてヤキモキしているところだ。

聴いている中で、photayとカルロス・ニーニョの共作アルバムを気に入っていた時期があり、なんとなしにネットでインタビューを検索して、曲を聴きながら読んでいた。

photayは川沿いの家に住んでいて、そのことがインスピレーションに直接つながっている旨を話していた。そして。

「なぜ生きているのかを問うのではなく、その有り様を祝福すること」が大切なのだ、ということを、川の流れから感じた、という。

これは…説明が難しいのだが、極めて的を射ている一言だと思った。

なぜに対する回答の仕方は無数にある。
そして、その全てが、今のところ「◯◯と前提を置いた場合の」という限られた範疇での回答にしかなっていない。
それは、数学でも、物理学でも、哲学でも…
何にしても同じことである。
おそらくそれは、当然のことである。
人間は「何故」に対する、全能の回答を用意することができない

そこをたった一言。「ありのままを祝福する」というパワーワードでベクトルの変更を図っている…

ここ最近でも1位2位を争う「お気に入りの一行」になった。

そしてこの一言は極めてフロー的であると感じた。
川が流れているものである、ということに由来しているのだろうか。



ここまでに既に4500文字を超える文字を費やして物を書いているが、最近新たに湧いた欲求の一つとして「童話を作りたい」という思いが強くなってきている。

ここでいう「童話」とは「正確に表現しようと思えば何千・何万・何十万字を費やす必要がある概念を包括するような、たった1行の、易しい言葉」のことである。

子供にも、おじいさんにもわかる。
前提知識なしで、スッと入ってくる。

一口で食べれて、消化に優しい言葉。
でも、数年たつとその味わいが変化してくる。

福永が知る限りではサン=テグジュペリ「星の王子様」ミヒャエル・エンデの「モモ」はそういう作品である。

photayの「ありのままを祝福」はそういう、童話的な一言だと思った。
さまざまな哲学を包括しつつ、その形状は砂糖菓子のように頬張りやすい。



前述の八丈島に住む友人は、かつてヨガスタジオとして使っていた家屋を、今は事務所として使っている。

その家屋を引き取るに際して、モノを片付けず、そのまんまな代わり、ちょっと安く借りることができたのだという。

ヨガスタジオ時代に壁に張り出されていた掛け軸が、今でもそのままかけっぱなしにしてあるのだそうだ。

曰く
「まだ残されている美について考えます アンネ・フランク」

これもまた、福永が意味するところの「童話」である。
包括的で、易しい表現。

こういう表現を探し、発見してコレクションしていくこと。
…みたいな、なんともいえない趣味が新たに自分の内側にモチベーションの灯をつけはじめている。

もちろん、表現方法は言葉に限らない。
それは絵画でも、音楽でも。なんでも問わない。
福永の中で新しいアンテナが、今まで聞こえなかった電波を受信する体制が整った、ということのようである。

こうして吉祥寺の街にいつか
「福永が意味するところの童話的表現屋さん」ができたりして、道ゆく人は…「こんなことにモチベーションを燃やした人生が、あったのだなぁ」と変な気持ちをもって暖簾をくぐったりするのかもしれない。



牛丼屋を営みたい人には牛丼屋の。
八丈島でイベントをしたい人には、イベント屋の。
人文知を深めたい人には、知識屋の。
童話を作りたい人には、童話屋の。

それぞれのアンテナがあり、それぞれ、この世界の無数のノイズに、それぞれに固有のヘルツを合わせ、全くの無意味であるはずのノイズに対して意味ありげな放送を聞く。

その目にしか映らないものがあり、その耳にしか聞こえないものがある。
どのアンテナが優れていて、どのアンテナは劣っているとか、多分、そういう優劣の関係で区切ることは難しい。少なくとも、現代に生きる人間が現代の価値観で区切るのは、とても難しい。
評価軸があまりにもたくさんあるからだ。
その証拠に、吉祥寺の町はとんでもなくカラフルである。

個々のアンテナに届く意味ありげなノイズについて、他人の話を聞くのはとても楽しいことである。
雑談とはおそらく圧倒的にフローであり、親や先生に褒められることではないが、それでも尚福永は、そういう時間に心惹かれ、あるいは面食らってしまう。

それはそれで、一つのアンテナの在り方なのだろう。
福永のアンテナは、今のところ、そういうふうに生えている。
自分と異なるアンテナとの差分孤独とも呼べるし、エンジョイできる幅という名前をつけることもできる。

今この瞬間にも80億のアンテナが、無数のノイズに、意味という名の絵の具をぬりつけて、さまざまにカラフルなストーリーを展開している。

そうであれば。
きっとどんなに絶望的な場面においても、今ここに残っている美について考え、そのありようを祝福することが、可能である。
なにしろ世界が一切変わらなくても、アンテナを磨くことは可能だから。
あなたのアンテナが受信しない話を、他の誰かはきっとしてくれるから。

眩暈がした吉祥寺の街を思い返すと、そんな気がしてくるのである。


本日はこれでおしまいです。

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