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命懸けの職探し

 「残り、500ドルか…。」
 一年の月日を過ごしたニュージーランドを後にして、オーストラリア行きの航空便の中。何度眺めても増えるはずもない財布の中を覗き込んでは、僕は不安に押しつぶされそうになっていた。これから降り立つケアンズには、もちろん知り合いは一人もいない。何かあっても外国人である僕を守ってくれるものは何もない。行く当てもない。資金さえもほとんどない。
 ニュージーランドでは、りんごの収穫で多少は稼いだが、それでも資金を使い果たしてしまっていた。その投資によって僕が手にしたものは、少しだけ話せるようになった英語と、ダイビングのプロとしてのスキル、握りしめた500ドルだけだ。
 一年間のビザが切れるタイミングで、一旦帰国して資金を整えることも考えた。しかし一度退けば、どんどん自分に言い訳をし始めて、勇気が必要な一歩を二度と踏み出すことが出来なくなってしまうのではないかと思うと怖かった。人生のレールを外れて自分の道を生きると決めた僕には、未知の世界に突き進む勇気を失えば未来はない。なんとなく、そんな気がしていた。
「オーストラリアで仕事を見つければいいじゃないか」
 僕は、ふと湧いてきたアイディアに、賭けてみることにしたのだ。僕がこの一年で手に入れた中で最良のもの。それは度胸だったのかもしれない。

「皆様、当機は着陸準備のため高度を下げてまいります」
 女性CAの力強い英語でのアナウンス。時計は午後3時を刺している。僕は何気なく窓の外に目を向ける。すると、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 真っ青な大海原に、エメラルドグリーンに輝く巨大な斑点が、水平線の彼方まで連なっている。水に滲んだ絵の具のように地球の表面を染めている。グレートバリアリーフだ。噂には聞いていたけれど、実際にこの目で見ると、否応なしに圧倒される。これほどまでに壮大で美しい景色が地球上に存在するとは。
 この珊瑚礁は、生物が作り出した世界最大の構造物である。約2万年前から成長を始めたと言われ、その全長は約2600キロあり、日本列島に匹敵する大きさだ。宇宙空間からも見ることができるという驚異的な規模。この珊瑚礁によって育まれた豊かな生態系は海洋生物のパラダイスと呼ばれている。
 南半球に位置しており、あまりに巨大であるという理由により、その領域の大半は近代に至るまでほとんど人間の影響を受けることがなかった。それも、この海がパラダイスとなれた要因の一つだろう。18世紀にオーストラリアへのヨーロッパ入植のきっかけをつくった航海士であるキャプテン・クックが、この海域での初めての航海で座礁して、死にかけたという。なんとか脱出することに成功したが、彼は後にこの海域を「一度入ると出ることのできない迷宮である」と語っている。この珊瑚礁は、海を渡る人間にとっては危険な障害物だが、水中生物にとっては堅固な城壁であり、安住の地。このエメラルド色に輝く水面の下では、神秘的な生き物たちが暮らしている。多様な生物の営みや、その悠久の歴史を思うと、僕の不安など、ちっぽけなことに感じられてくる。そしてこの海の輝きは、僕に漠然とした希望をもたらした。

 飛行機は、生い茂る熱帯雨林の隙間に静かに着陸した。スムーズに入国審査を終えて、空港の建物の外に出る。道路の脇には椰子の木が立ち並ぶ。風は熱く、ジャングルの香りが蒸し出されている。
「さあ、どう生き残ろうか」
 あまりに大きな不安と、あまりに明白な計画立案不可能性の組み合わせは、僕を完全に開き直らせていた。大きすぎるプレッシャーによって、心が裏返ったような感覚。考えても仕方ない。なんでもいいから全力で行動するしかない。ケアンズ市街へ出るバスに乗り込む頃には、気持ち悪いほど前向きで、清々しさに満たされていた。

 バスの座席に着くと、僕の後ろには旅人が座っていた。彼が旅人かどうかは確認していないが、そうでないはずがないという風貌をしている。20代後半の白人男性。ドレッドロックスと伸ばした髭は共に金髪だ。綿素材と思われるベージュのゆったりとした服を身に纏って、大きなバックパックを脇に置いている。彼なら何か知っているかもしれない。おもむろに振り返って、背もたれ越しに話しかける。
「やぁ。初めまして。ちょっと聞きたいんだけど、もしかして安い宿を知らないかな。まだ今日の宿を決めてなくて」
 彼の返事は、僕らがすでに会話中であったかのように、落ち着いて自然な響きだった。包み込まれるような、不思議な引力を感じる。
「ああ、ぼくがこれから行く宿は安くてたくさんの旅人がいる。着いてくるといい」

 バスを降り、旅人の男についていくと、すぐに宿に到着した。大きな木の門を潜ると、熱帯の植物が生い茂る中庭に出る。受付で一番安い部屋を選び、とりあえず二泊分を支払う。一泊18ドル。確かに安い。通されたのはシングルベッドが四つ並ぶコンクリート作りのシンプルな相部屋だった。ペンキで水色に塗られた壁、天井ではシーリングファンが旋回している。荷物を置いて、何かに追い立てられるように部屋を出る。僕には一息ついている暇などない。もしも、仕事を見つけられないまま資金を使い果たしたらどうなるのだろう。ここでホームレスをしながら物乞いになるのだろうか。…考えても仕方ない。タイムリミットは3、4日と言ったところだろう。

 ケアンズは、街全体が熱帯のガーデンのようだ。空間が広々と使われて、街全体がゆったりとしている。中心部でも巨大な木々が鬱蒼と茂り、その隙間に可愛らしい建物が顔を出す。広場にはベンチが置かれ、人々がアイスクリームやフルーツジュースを楽しんでいる。無料の人工砂浜を備えたプールはとても賑わい、どこへ行っても歩行者が明るい顔をしている。日差しは強く、水着で歩く人も少なくない。
 陽気な街の雰囲気を尻目に僕は一人、真剣な顔でレストランのテラス席に腰掛けて、景気づけに奮発したハンバーガーを頬張っている。おそらく、これからの数ヶ月で最後の贅沢になるだろう。その味を噛み締めながらも一気に平らげる。
 今日買ったばかりの携帯電話を手に取って眺めながら考える。街に出てすぐに、銀行で換金したところ、500ドルが370ドルほどになってしまっていた。予想以上に目減りしていた。その上で、携帯電話に100ドルも使ってしまった。必要な出費だが、資金を使うたびに身を斬るような感覚だ。すでに残りは200ドル。しかし、節約して縮こまっても死ぬのは時間の問題である。わずかな資金と時間をどこに賭けるか。生死をかけたギャンブルに打って出なければならない。
 胎を決めて席を立つ。

「こんにちは!仕事をもらえませんか?」
 もういくつの店で尋ねただろう。答えは今回も、お決まりの苦笑いだ。辺りはすっかり暗くなっている。最初は雰囲気のいい店を選んだりもしたが、すぐに贅沢は言っていられないと、手当たり次第聞いて回るようになった。しかしそれでも結局、僕を雇ってくれるところは見つからなかった。ここでの僕の価値はそんなものなのだ。これが現実。
(この街に来たばかりの、英語もろくに話せない外国人である僕を雇ってくれるところなんてないんじゃないか。ここに来たのは間違いだったんじゃないか)
 怖い。それを考え始めると呑まれて立ち上がれなくなってしまいそうだ。心の声を振り払うように足早で歩き出す。今日はもう疲れ果てた。このくらいにして、そろそろ宿に戻ろう。

 宿に辿り着くとすぐにフロントに行き、スタッフの若い男性に話しかける。「こんばんは。仕事を探してるんだけど、何か知らないかな」短髪に無精髭の爽やかな若者だ。彼は僕を見て少し考えて口を開く。
「ああ、いくつか可能性があるところを知ってる」
 そう言って名前と電話番号を教えてくれた。僕はそれを小さなメモ帳に箇条書きしていく。書き終わると彼が言った。
「この宿には旅人が多い。彼らも情報を持ってるはずだから尋ねてみるといいよ。幸運を」

 ベッドに倒れるように横たわると、天井にはヤモリが張り付いている。改めて、オーストラリアに来たのだという実感が湧いてくる。左手に持ったメモ帳を顔の前に出して眺めると、そこには十数件の電話番号が記されている。旅人たちは皆、親身になって連絡先を教えてくれた。本当にありがたい。
 嵐のような一日だった。今朝はまだニュージーランドにいたはずだが、もうずっと前のことであるように感じる。一人きりで天井に佇むヤモリを眺めていると、なんだか僕を見ているようだ。あのヤモリは、これからどこに行くのだろう。

 翌朝、鳥達の声で目を覚ます。頭上の窓から日光が差し込んでいる。起き上がってベッドに座り、昨晩の残りのフランスパンをかじる。今日やることは決まっている。まずはとにかく電話をかけることからだ。
 ベッドに座ったまま、メモ帳を開いて脇に置く。買ったばかりの携帯を手に取り、番号を押してゆく。

 また断られた。立て続けに断られ、十数件あった連絡先も、あと一件を残すのみになってしまった。最後に残った番号の横には「バナナファーム」と書かれている。番号を押す指が重い。その理由は、これが最後の一件だからという以上に、なぜ最後に残ったのかという方に関係があった。昨晩、中庭で旅人たちと話していた時に、数人から言われていたのだ。「バナナファームだけはやめておけ」と。そして、その言葉はニュージーランドにいた頃にも、オーストラリアを旅した男から聞かされたことがあった。彼は言っていた。「バナナの収穫は一番きつい肉体労働だ。もしオーストラリアに行っても、それだけはやめたほうがいい。体が壊れてしまうからな」
 それが理由で、この番号が最後まで残ったのだ。しかし、背に腹は変えられない。このまま野垂れ死ぬよりは、どんなにきつくても、仕事にありつけるだけマシなのだ。もたついている暇はない。
「ガチャ…はい」
 電話口から落ち着いた女性の声が聞こえてくる。
「こんにちは!仕事を探しています。雇っていただけませんか?」
 何十回と繰り返したセリフ。そして何十回と断れられ続けた問いかけ。もはやこの言葉に期待は籠っていない。
「仕事ね。ないことはないわ。だけど、うちの仕事は本当にきついけど大丈夫かしら」
 初めての好感触に、理解が少し遅れる。ついに仕事が見つかるかもしれない。期待が込み上げると同時に、冷静な落胆が訪れる。やはり噂は真実だったようだ。
「大丈夫だと思います。働かせてください!」
「大丈夫だと『思う』では無理だと思うわ。本当にきついから」
 電話口の女性の声は落ち着いていて、毅然としている。確かに、迷いがあったからあのような言い方になったのだ。しかし、これが最後の電話番号。もう後がない。どんなにきつい仕事だろうと、もう覚悟を決めるしかないのだ。僕は、断られまいと力を込めて言い切る。
「100%の自信があります!どうか仕事をください!」
「そう…。わかったわ。明後日、面接に来てちょうだい」
 ついにチャンスを得ることが出来た。これで生き残れるかもしれない。そんな希望を感じながら、気になってこの農場のウェブサイトを検索してみる。すぐに見つかり、求人ページをクリックする。そこに書き込まれた文章を読み始めると、一行目で絶句した。「バナナの収穫の仕事。どこの誰でも、地獄の苦しみを味わいます。様々な種類の痛みがあなたの全身のあらゆる部位を次々に襲うでしょう」吹き出してしまった。自分の会社の求人で、こんな文言を普通いれるだろうか。間違いなく、尋常ではないキツさなのだろう。ここまで言われると清々しい。むしろ楽しみになってきた。約束された苦難の道も、絶望から見れば道があるだけまばゆく光輝いている。やってやろうじゃないか!
 僕はおもむろに、腕立て伏せを始めていた。

 バスから見える景色は、古く、広大であり、痩せていた。ケアンズを出るとすぐに熱帯雨林の雰囲気はどこかにいって、辺りは一面、乾燥した草原になる。大地を覆う赤土に、茶葉のような褪せた緑と、乾いて黄金色になった細く真っ直ぐな草がどこまでも広がっている。そこにアカシアやユーカリなどの常緑樹がまばらに生えている。オーストラリア内陸部のほとんどはアウトバックと呼ばれ、このようなステップか砂漠地帯に占められている。オーストラリアの北、インドネシアを通る赤道付近で温められて上昇した空気が、オーストラリア付近で下降するせいで雨が降りにくく、大陸全体が乾燥しているのだ。そのため、人口の95%は海岸沿いに集中している。
 この乾いた景色は、視界の向こう何百キロ、あるいは何千キロと続いているのだろう。気が遠くなる話だ。

 4時間ほど変わらない景色を走り、待ち合わせをしている寂れた集落でバスを降りる。迎えに来てくれた車に乗り換えて走り出すと5分ほどで、乾いた草原の真っ只中に、いきなり巨大な森のようなものが見えてくる。みずみずしく鮮やかな緑。近づくとほとんどジャングルといった体だが、全てバナナの木らしい。その横を走って少しすると、バナナファームのオフィスにたどり着いた。荒野とジャングルの境界線に建つ、金属製で灰色の工場のような大きな建物だ。

 僕は緊張していた。ここまで来て万が一、仕事をもらえなかったらどうすればいいのだろうか。バス代もかなりの痛手。もし帰りの分も支払えば、それでほとんどの資金が尽きることになる。
 オフィスの扉を開けると、真正面のデスクに40代くらいの女性が座っていた。金色のショートヘアに眼鏡をかけている。真剣な表情で、真面目そうな雰囲気だ。
「入って」
 僕は部屋に入り、軽く挨拶をする。彼女はグレースと名乗った。
「あなたが電話で話したケントね」
そう呟くと、彼女は机に座ったまま、5秒ほど僕の体を上から下まで観察し、淡々と口を開く。
「大丈夫そうね。いいわ。働いてちょうだい」
 あまりに唐突で、一瞬状況が飲み込めない。仕事をもらえたということか。一言も発することなく、数秒で面接が終わってしまった。面接というよりは競りに近い雰囲気だった。ここに求職に来る人々を見極めるための目利きは、マグロや家畜を見るのに似ているのかもしれない。実際それほど体が大事な仕事なのだろう。
 苦労して、不安を重ねてきた分、あまりにあっけない結末に実感がなかなか湧かない。
(やった…。やったんだ!これで生き残れる!)
 間を開けて、じわりと喜びが込み上げてくる。彼女は事務的な口調で続ける。
「じゃあ明日から仕事をしてもらうわね。このファームに宿舎はないから、この近くで唯一貸してくれるところを紹介するわ」

 オフィスを後にして、近くの集落に戻る。送り届けてくれた若い男性が宿泊先を案内してくれる。レセプションに行くと、白くて長い髪の初老の女性が迎えてくれた。
「バナナファームで働くのね。じゃあ一週間分先払いで120ドルよ」
 足りない。残りの所持金は100ドルにも満たない。
「ごめんなさい。少し足りないんですが…」
 女性は特に感情を込めずに、さらりと答える。
「じゃあ泊まれないわね。残念だわ」
 生き残ったと思ったが、わずかに届かなかった。急に降りかかった問題に混乱しながらも、一気に思考が回り出す。
(野宿か…。いや、しかし聞いた話から考えると、この辺りで野宿するのは危険すぎる。毒蛇や毒蜘蛛、野犬や猪、いずれも僕を殺しうる。カンガルーやワラビーも侮ってはならない。可愛い見た目だが蹴られればタダでは済まない。蚊やブヨのような虫も日本のものより強力だ。アリですら危険な種類がいるらしい。給料が出るまで野宿をするのはあまりにも厳しい)
 一瞬で考えた結果、バナナファームのオフィスに戻り、相談することにした。

 ノックをして、再びファームのオフィスに入る。恐る恐るグレースに事情を話すと、彼女は少し考え込んでからこう言った。
「いいわ…。500ドル貸してあげる。どっちにしてもそれでは給料が出るまで満足に食事も出来ないでしょう」
 その口調は今までのトーンとは違っていた。事務的な空気はなく、温かさを感じられた。
 僕はそれを聞いてほっとする以上に、驚いていた。オーストラリアに来てから、どこに行っても仕事をもらえなかった。もうダメかもしれないとすら思った。しかし、ここは僕を一瞥しただけで仕事をくれて、しかも、一日も働いていないのに500ドルものお金を貸してくれたのだ。なぜだろう。分からない。
 僕はありがたさのあまり、膝から崩れ落ちそうになっていた。命を救われたのだ。これほどの危機は初めてで、こんな風に救われるのも初めてのこと。これが命の御恩というものか。この数日、自分を麻痺させるほどに気を張っていた分、安心感と同時に力が抜けてしまった。そして僕の心には、忠誠心とでも呼ぶべきものが芽生えてきていた。
「どれだけきついか分からない。だが、どんなにきつくても死に物狂いで、文字通り命がけで働こう。わずかでも恩返しがしたい」

 そうして、僕の賭けは実を結び、オーストラリアでの生活が始まった。

不可能に思えることも、本気で挑戦すれば道は拓ける。
人は人に手を差し伸べるもの。

 それが、僕の胸に深く刻まれた。いつかは僕も、誰かを救える人間になりたい。そのためにもまずは、ここで全力で働いて恩を返していこう。それが何も持たない僕のスタートラインだ。ここから絶対に這い上がる。そんな決意を胸に、眠りにつく。


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