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フランス芸術の立役者 フランソワ1世

芸術のパリ、印象派、ルーブル美術館、モンマルトルの丘。フランスが芸術先進国だということに異を唱える人は少ないだろう。でも歴史を考えると、16世期ルネッサンスまではフランスは大して芸術的ではなく、北方ルネッサンス(北方というのはアルプスより北側)の時期もドイツやオランダでは芸術が興ったにも関わらず、フランスではパッとしない。それでも17世紀半ばには王立絵画彫刻アカデミーが設立され、いわゆるサロンが開催されて芸術が興ってくる。なぜか?

その要因として真っ先に思いつくのはフランソワ1世(1494-1547)。
彼は芸術にとても理解がありフォンテーヌブローに王宮(別荘)を建てて、ここにイタリアから芸術家を呼び寄せて絵を描かせていた。いわゆるフォンテーヌブロー派だ。王家という権力が芸術をバックアップするようになった。この時フランスにも画家や彫刻家の組合はあったようだけれど、芸術家というよりは職人組合的な傾向が強く、発展力に欠いていた。当時のフランスの芸術は今で言う芸術と言うより、職人画家、職人彫刻家がつくる工芸的なものだったのだろう。そこに外圧をかけて工芸を芸術たらしめて、振興を図ったという訳です。


実はフォンテーヌブロー宮の前にもフランソワ1世は重要な人物をイタリアから招いている。1516年レオナルド・ダヴィンチ を招き、アンボアーズ郊外のクルー城に住まわせて、芸術や運河工事にあたらせた。ダヴィンチ はイタリアからモナリザを携えて来て、1519年に客死した。だからルーブル美術館にモナリザがあるのです。

前述の王立絵画彫刻アカデミーも「王立」ですので、まずは国(王家)が先導して国力としての芸術を高めていったのですね。その公募展がいわゆるサロンで、歴史画・宗教画に重きをおいていたため、それに反発した民間人が個展や合同展を開催する様になり、主役が国から民間に移ってパリは芸術の都になっていくのです。

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