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「人は『意味』を欲しがる」ということと音楽

この間、あるお医者さんと話しているとき「痛みや苦しみに耐えるためにその『意味』を知りたがる患者さんが結構いる」という話がでました。


ヴィクトール・フランクルも『人は意味のない苦しみや人生には耐えられない、自分にとっての、自分だけの生きる意味を考えることが大事だ』と主張していますが、やっぱり実際にそうなんだなぁと思いながら


「もちろん、どんな意味付けをするかは人によって違うでしょうけど、皆さんどんな意味付けをされることが多いですか?」と訊いてみますと


「『自分の病気のデータによって治療法の研究がすすみ、将来同じ病気で苦しむ人が救われるんだ』という方や『確率的に、他の人がなってもおかしくなかった病気に自分がなることで、きっと誰かが病気にならずにすんでいるはずだ。自分が身代わりになることで誰かが助かったのだ』という方が多いですね…

(もちろん、ある人が病気になったことと、他の人が病気になる確率は関係ありません。しかし、間違っていても、この『意味』を信じることで苦しみが和らぐなら、わざわざ否定する必要はありませんよね)」ということでした。


それで私、ちょっと感動しまして「皆さん『自分以外の誰かの役に立つ』という意味付けをなさるんですね?」と訊くと


「いえいえ、自分自身の中で完結する意味付けをする方もおられます。例えば『運は全体としてプラス・マイナスゼロになるはずだ、今運悪く苦しんでいるということは、その分いつかすごい良いことがあるはずだ、ひょっとしたら、来世かもしれないけれど…』とか『これまでの人生、あるいは、前世で犯した罪の報いだ、この苦しみによって、私の罪が消えるのだ』というような…

(上記の病気の罹患率と同じく、この運に関する確率観は正しくありませんし、苦しむことで罪が浄められるのかどうか、来世や前世もあるかどうかわかりません。しかし、上記と同じくこの『意味』を信じることで、苦しみが和らぐならば、それをわざわざ否定する必要はありません)。

まぁでも、誰かの役に立つという意味を思いついた方のほうが、幸せそうですね…」とのことでした。


さて、クラシック音楽には「絶対音楽」と「表題音楽」という分け方があります。絶対音楽は『言葉等で表現したい意味はないので、音楽で表された美しさのみを味わってください』というもので、表題音楽は『物語や風景等の表現したいことがありますので、題名や説明文も読んでください』というものです。


しかしながら、作曲家が絶対音楽のつもりで作っても、聴衆はその意味を知りたがりますので、もともと題名や説明文のなかった絶対音楽も、たいてい後世の人が名前をつけたりします。


例えば、ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番には彼の死後「月光」という名前がつけられ、その曲を聴いた人は月の光が湖のさざ波を照らしている様子をどうしても想像してしまいます。

(ベートーヴェンはこの曲に幻想曲風ソナタという名前をつけており、ロマン派風表現なので、この曲は絶対音楽の例としてはあまり適切ではないかもしれません、まぁでもこの曲が何を表しているかについて明確な説明を、ベートーヴェンはしませんでしたから、大目にみてください)


そうなると、ピアニストも、聴衆の期待に応えた方が喜んでもらえますし、聴衆に喜んでもらえると演奏する側も嬉しいので、そんなイメージで弾きます。また、ピアノの調律師もそれに合わせた調律をします。


(多分、ベートーヴェンはあの世で苦笑していると思います…(笑)。そして、そういったベートーヴェンの意を酌んで、別の解釈で演奏したり、調律したりする方もおられます。)


つまり、苦しみや痛み等のネガティブなものから、音楽のような美しいものまで、人は『意味』を求め、かつその意味が誰かに喜ばれるものであったときにもっとも幸せを感じるようです。


また、興味深いのは、そういった『意味』が、上記のように理性的・科学的に考えたらあり得ないことであったり、後付けであったとしても(そしてそれを本人が自覚していても!)その意味を失わず、ちゃんと『意味』として機能するということです。

つまり『意味』は、知るものはなく信じるものなようです。

自分のこれまでの人生と、今と、これからの人生に、自分が最も幸せを感じる意味付けをいたしましょう(*^▽^*)

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