『芸術やエンターテイメント等の表現活動が平和を保つために必要な理由』

心理学的には、暴力は手段ではなく目的です。人は何らかの目的を達成するための手段として暴力を使うのではなく、暴力を用いる口実として、大義名分となる目的をでっち上げます。


しかしこれは別に人間の本性が悪であるからではなく、進化の過程で


『生存を脅かす脅威が現れてから、戦ったり逃げたりできるように心身を鍛えようとしても遅い。
突然脅威が現れても対処できるように、訓練として、何もなくてもときどき戦ったり逃げたりしたくなるような欲求が生じるようにしておこう。
そのためには戦ったり逃げたりすると、快感を得られる麻薬のような物質が脳内に放出されるようにしておけばOK』


と遺伝子が判断してそういう機能を作ったからです。


そんなわけで、現代社会では必要がなくなった暴力行為や逃走を私達はときどきしたくなります。


言葉の暴力も、身体的な暴力も、果ては国家の軍事行動も、理性的に考えれば、それらは全くなくても現代社会は成り立ちます。暴力は現代社会にとって必要のない悪なのです(必要なのは野生生物から人間を守るときくらいです)


暴力が現代社会に必要だという人や集団、国家等の理由をよく聴くと、どれもこれも『他の暴力を止めるため』です。
人は他の人の、集団は他の集団の、国家は他の国家の暴力を止めるためと言って暴力の準備をしています。


つまり、暴力は目的も手段も暴力であり、暴力は次の暴力の原因になりますので、暴力で暴力を根本的に解決することはできません(一時的、表面的には解決したように見えることもありますが…)。現代社会において暴力の必要性はでっちあげられた幻想なのです。


そういう欲求を誰も傷つけずに発散するために攻撃的な芸術表現やエンターテインメント、あるいは激しいスポーツ、格闘技などがあります。


しかしながら、人間は、ある刺激に慣れると、さらに強い刺激を求めます。さらに強い刺激を得ようとして間違った方向に行くと戦争が起きたりします。


こういった事態を防ぐためには、常に、これまでになかった、いままで存在したどの作品よりもさらに刺激的な芸術表現やエンターテイメントを作り続けなくてはなりません。
(同様の理由でプロのスポーツや格闘技は、より危険なルールになっていく傾向があります。しかしこれはどこかでストップしないと選手達に怪我が続出して、興行が成り立たなくなります。)

また、平和や愛、日常的な幸せ等を表現した芸術やエンターテイメントも大切です。それらは、人間の上記のような暴力的欲求にブレーキをかける働きがあるからです。

さらに理想を言えば、全ての人が、そういった表現活動を受け身に鑑賞するだけでなく、何らかの表現活動を行い、自分の中にある行動化してはならない欲求を、誰も傷つけない形で解消したり、ブレーキをかけたりできるような社会、芸術活動が一部の人のものではなく、全ての人が表現し、表現されたものが頭ごなしに否定されない社会が望まれます(もちろん様々な価値観がありますから、表現されたものに対して個々人の好き嫌いがあるのは仕方がありませんが、表現することそのものに対しては全ての人が肯定的な社会となってほしいと私は思います。それが世界平和につながるからです)


芸術やエンターテイメント等における自由な表現活動は平和を保つために必要なことなのです。

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