『道徳の心理学的発達と、文化、芸術とメディア』

ピアジェという心理学者が『ふざけているときにお皿を一枚割ってしまった子どもの絵』と『お手伝いをしているときにお皿を10枚割ってしまった子どもの絵』を子ども達に見せ「どっちが悪い子だと思う?」と尋ねました。

すると、だいたい9歳以前の子ども達は「お皿を10枚割った子の方が悪いよ、たくさん割ったんだから」と答え、だいたい9歳以後の子ども達は「ふざけているときにお皿を割ってしまった子の方が悪いよ」と答えたそうです。

この結果から、ピアジェは『9歳くらいまでは、子どもは道徳的判断において結果を重視し、それ以降は動機を重視する』という説を唱えています。

このような動機重視の考え方は、法律における考え方と一緒ですよね。法律でも悪意があった場合、悪意がなかった場合よりも罪が断然重くなります。それ故、法律の基礎的考えも子ども時代の道徳の心理的発達にあると言えます。

さて、授業でこの話をすると、『え?9才以前は動機は考慮しないんですか?』という反応がときどき来ますが、全く考慮しないわけではありません。

実際、幼児は4歳頃、他者の心と自分の心は違うと気づき、言葉を使って他者の心を意識的に推測しだします(心の理論の成立)。

そしてそれ以降においては、他者の行動に対する動機の推測がその行動に対する自分の対応を決める上で大きな意味を持ちます。

例えばお友達にぶつかられたときに『わざとやったのか?わざとではないのか?』『わざとならば、悪意があったのか?ただ単に遊ぼうとしているのか?』をお友達の言動や状況から判断して対応を変えます。

なので、9歳くらいまでは、道徳的判断において結果を重視するのは、動機と比べて結果を重くみるというだけであり、動機については考えないというわけではありません。

では、なぜ9歳くらいまでは、結果をより重くみるのか?

ピアジェは、子どもは九歳頃までは、「神様や大人が決めた善悪や規則、ルールは絶対(ただし、遊びとかの重要でないルールは変えてもいいこともある)」という他律的道徳観であり、その後「善悪や規則、ルールは状況をみて自分で判断するもの」という自律的道徳観に移るので、行為者自身の動機や判断が重視されるようになるのだと述べてます。

しかし、私はちょっと違うんじゃないかなぁと思います。子ども達を観察すると、九歳以前の子ども達もその遊びや対人関係の中で、規則やルールを柔軟に変化させますし、より包括的な善悪も様々な体験や、試行錯誤を通して子ども達は自ら「発見・発明」しているからです。

(ピアジェが観察した子ども達が言った『人間の意志に関わらず絶対的に守らなくてはならない規則もあり、それらは習って覚えなくてはならない』という考えは、キリスト教的な文化の影響なんじゃないかなぁと私は思います。

キリスト教的文化圏においては、理性では答えられない倫理的な基礎に関する問題、たとえば『そもそもなぜ人は目的であって手段としてはならないか?』等を『神様の御心(理性では捉えられない倫理的基礎)に叶うから』と信じることにより不問にします。いわゆる「罪の文化」であり、倫理的な違反は神様に対する違反です。

それに対して日本では、理性では捉えられない倫理的な基礎は、対人関係の相互作用から生まれる感情であるとみなす「恥の文化」です。

この文化差の影響により、欧米のこども達は幼いときは『大人達から習った善悪は絶対だ』と思って他律的な道徳観となり、成長してからは『大人達も善悪の基礎を知っているわけではなくて、信じているだけであり、現実の問題はそれぞれが信じていることをもとに話し合わなくてはならない』と考えるようになり、自律的な道徳観となるのに対して、日本のこども達は対人関係の相互作用によって生まれた感情を倫理的基礎とするので、幼いときから自律的な道徳観と他律的な道徳観(大人に怒られることはしない)が混じった状態なんじゃないかなぁと思います。どうなんでしょうね?いつの日にか、詳しい方に習いたいと思ってます。)

ところで、ピアジェは別の研究で2歳から7歳くらいまでは前操作期といって『概念を操作できる前であり、イメージでものを考える時期』と述べています。

この時期は、イメージすなわち見た目で判断が左右されます。例えば、一緒に数を数えて同じ数ということをが分かっているはずのおはじきでも、ちらばっている状態とまとめてある状態を見せると、散らばっている状態の方が数が多いと答えたりします。

そんなわけで、おそらく『お皿がたくさん割れている絵』と『お皿が一枚割れている絵』を見せられた子どもは『たくさん割れている』という目に見えるイメージと『ふざけていた』という内面を推測しなければわからない原因を比較したとき、目に見えるイメージの方に強く影響を受けたんじゃないか…と私は思います。

(もちろん他の解釈もできるでしょうし、他の説もあるでしょうけど)

言い換えると、だいたい9歳以前の子ども達は、動機よりも結果を重視したというより『ぱっと見て分かりやすいもの』を重視したのではないかと私は思います。

これは、子どもに関しての話ですが、大人は子どもをベースにして作られていますので、子どもに観察される特徴は大人も良く観察するとだいたい現れます。

大人においても『ぱっと見て分かりやすいもの』の影響はとても大きいですよね。さまざまな芸術やメディアにおいて、『ぱっと見て分かりやすいもの』が毎日大量に作られ消費されていってます。作り手だけでなく、受け取り手も映画を早送りして観るというように、短時間で分かるように加工したりします。

そして、それは悪いことばかりではなく、時間に追われる現代人においては、情報をたくさん取り入れる等、むしろ良い面もあると思われます。

しかしながら、時には立ち止まってじっくりゆっくり考えてみるという時間もなければ、前操作期の段階に逆もどりしてしまうのではないか…と私は思います。

お茶でも飲んで、ゆっくりしましょう(^^)/

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