日比谷公園と佐賀と首都東京 Part 3
首都攻防戦:上野戦争
1867年10月、将軍:徳川慶喜は京都二条城で大政奉還し、政権を天皇に返上します。しかしその後、新政府軍と旧幕府軍との間で鳥羽伏見の戦いが勃発、戊辰戦争に発展します。
当初は慶喜は京都・大坂で新政府軍と戦いますが、一転、戦線を離脱、部下を残し江戸に帰還、全ての政治を幕臣・勝海舟に任せ、自身は上野・寛永寺にて謹慎を始めます。
その後、新政府軍は慶喜追討令のもと江戸に進軍、武力にて江戸を制圧する予定でしたが、幕府側の勝や山岡鉄舟の活躍で、江戸城総攻撃は中止、江戸城無血開城となり、慶喜は、実家の水戸に謹慎の場を移します。
これで、平和的に江戸城及び江戸の町が新政府軍のものとなるはずでしたが、旧幕臣の中で新政府軍に徹底抗戦を叫ぶ過激派の集団=彰義隊が慶喜が退いた後の上野・寛永寺に籠り籠城します。
江戸市中での戦いとなるため、戦闘が長引けば、最悪、江戸中が焼け野原となる恐れがあります。
新政府軍を指揮した長州藩出身の大村益次郎にとっては、堅城で要塞化した広大な上野を短期間で攻め落とさなければいけない。非常に困難な作戦でした。
秘密兵器: 佐賀藩製アームストロング砲(改)
しかし大村には秘密兵器がありました。佐賀藩の科学技術の粋を集めたアームストロング砲(改)です。(イギリスから輸入したアームストロング砲を佐賀藩が独自に改良し、より長射撃で命中精度が高まっていた)
写真:上野戦争で活躍したアームストロング砲
大村は、不忍池を挟んで対岸の加賀藩上屋敷跡(現東京大学)から、このアームストロング砲を使い彰義隊を攻撃します。(この位置からだと、アームストロング砲は射程圏内なものの、彰義隊の装備では攻撃出来ず、圧倒的に新政府軍有利だった)
午前7時に始まった戦いは夕方5時には終結したと言われています。(それほど、アームストロング砲の威力はすごかった)
つまり、佐賀藩の科学技術がなければ、上野戦争が長引き、結果、東京は火の海に。そして、首都は東京に置かれなかったかもしれません。(東京都民は佐賀には頭があがらない?) 余談ですが、東京都民の僕は、佐賀城訪問後この話を知り、佐賀県にふるさと納税をしたことは言うまでもありません。
エピローグ: 閑叟と上野戦争
上野戦争の時点で、閑叟は佐賀藩藩主の座を息子=直大に譲っていました。ただ、武器を作った閑叟だからこそ、このアームストロング砲の威力については熟知しており、過度な被害をもたらすこの武器の使用には最後まで難色を示します。
この閑叟の考えがあったからか、直大は戦いの中で負傷した者を敵・味方関係なく救護しました。この出来事が後に同じ佐賀藩士である佐野常民に受け継がれ「博愛社」(のちの日本赤十字社)の設立に繋がります。
大きな力を持つからこそ、それによって生じる犠牲についても考えないといけない。閑叟の科学技術の発達と高度な道徳観の両立は、21世紀を生きる私たちも学ぶことが大きいと思います。
写真:赤十字の前身「博愛社」を設立した佐野常民