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75年目の夏

日本では一般的に終戦の日 = 8月15日とされていますが、実は、この終戦の日については、「何をもって終戦とするか」で日にちが変わります。

1. 8月14 日説:日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通知した日

2. 8月15日説:玉音(=天皇陛下の肉声) 放送がされ、国民が日本の敗戦を知る

3. 9月2日説:日本が降伏文書に調印した日。(ポツダム宣言の正式受諾)東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において調印された。

降伏文書の調印日が9月2日のことから、国際的には、太平洋戦争の終結は9月2日説が一般的だそうなのですが、日本では、玉音放送のインパクトもあり、やはり8 月15日だと思います。

終戦の詔書

この玉音放送で昭和天皇が読まれたのが「終戦の詔書」で、現在、その文書が東京・竹橋にある公文書館で展示されており、かつ、国立公文書館デジタルアーカイブ (https://www.digital.archives.go.jp/)でもみることができます。

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「終戦の詔書」原文

現代語訳 (ページ下部にあります)


この詔書ですが、通常の詔書に比べ明らかにありえない点が二点あります

まず、天皇御璽(ぎょじ=印のこと)。通常は文字が御璽に重なることがありません。

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次に、二行目の「趨ク」の文言の部分。少し分かりづらいですが、紙を削り書き直されています(少し背景の紙が黒くなっています)。通常、法律の公布原本である御署名原本には、当然のことなとながら修正等は見られません。

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これらいびつな体裁は、閣議と並行して浄書されたため、書き直すには時間がなく紙を削ったり、字句を付け足すなどの修正が行われたためです。

決断できない政府

実は、日本政府はポツダム宣言について、7月26日に伝達されていました。しかし軍部も政治家も終戦の決断を下すことができず、議論が何日も並行線を辿り、その間に広島・長崎に原爆が投下され、また、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄し日本領土に進行し、何十万人もの命が失われました。

最終的に、終戦か戦争継続かの決断を天皇に決めてもらうことになり、昭和天皇により終戦の決断が下されました。 (天皇による決断を「聖断」と言います) この聖断が降ったのが、玉音放送一日前の8月14日午前です。

75年後を生きる私たちの責任

戦前の大日本帝国憲法下でも、天皇自身が政治に関与することは珍しく、ましてや、政治的決断を下すことはほとんどありませんでした。

その異例中の異例である、超法規的措置を取らねば終戦の決断を下せなかった日本政府や軍部。この「終戦の詔書」は、決断できない政治家、その事実を暗に語っている文書と言えるのではないでしょうのか。

国が消滅するかもしれない。その一歩手前まで行った日本。なぜそこまで壊滅的な敗戦となってしまったのか。

私たちは、被害者として戦争の悲惨さばかりを考えがちですが、戦争に至るまでの経緯、戦争の加害者としての日本、そして政治家・軍部の意思決定プロセスなど、これまで決して多くクローズアップされてこなかった側面を包括的に考える必要があるのではないでしょうか。

そしてそこには、歴史の知識や思考能力が求められると思います。

追伸:

8月14日から15日にかけて、政府首脳部で何が起こっていたのかについては、半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」に詳しく書かれているので、興味のある方はぜひ一読ください。


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